2014-01-01から1年間の記事一覧
『実話雑誌』の昭和28年11月号を見てゐたら、堀川辰吉郎が出てゐた。『日本週報』の記事よりも早い。 「四十人の妻を持つ男」で、藪内忠三筆。表題の通り、世界各国に妻を持ってゐるといふことが描かれてゐる。読み物風で、ご落胤といふことや国粋会出身…
宮武外骨が発行してゐた『滑稽新聞』の中に、幽蘭女史が何回か登場する。 なかでも明治42年3月15日発行の第12号のは「奇人本荘幽蘭女史」といふもので、一頁すべて使ってゐる。 当時は九州毎日新聞に「赤裸々の懺悔」といふ小説を連載してゐたさうだ…
続き。昭和25年4月の創刊号には、深町眞光の訪問記事も載ってゐる。大本教では総務兼青年部長で、岡田茂吉は大森支部長。深町の方が遥かに先輩だった。大本と和道会時代には下位春吉と行動を共にした。取材時は熱海で大光明教会の教祖に収まって、他宗批…
「問答無用」と言って、犬養毅の命を奪ったとされる山岸宏。その後名前を敬明と改めた。戦後に輪タク会社を運営してゐたことは、宮本百合子の「ファシズムは生きている」に描かれてゐる。青空文庫で読むと、元皇族の賀陽恒憲が出資してゐて、山岸夫人が賀陽…
『六十の味』(菅原通済、常盤山文庫出版部、昭和31年)の中に、高源重吉死去のことが載ってゐる。高源は新夕刊の社長。文中では「豪傑浪人」。 児玉誉士夫、吉田裕彦君等そのみちの豪傑が深夜なのに馳せつけたのは勿論だが、小林秀雄、今日出海君等ものぐさ…
『黒の灯り―敗戦日本、死ねと言われた男たち』(青柳修道、日本ブックマネジメント株式会社、平成2年12月)読む。著者は気功や東洋医学の先生で、近影はいかにも厳めしい。著書も健康法についてのものばかりだが、本書は実名をあげて戦後日本を描いた小説。…
江戸時代に大名だった家が、明治になり華族となったのが大名華族。蜂須賀年子の『大名華族』(三笠書房、昭和32年10月刊)は自身の生ひ立ちを綴ったもの。 母は徳川慶喜の娘、筆子。父の蜂須賀正韶は宮内省式部官。徳川家や皇室とのつながりもあって興味深…
続き。昭和17年半ば、上海で情報活動をしてゐるといふ岡村中佐が接触してきた。 蔣介石側が日支和平を求めてきたので、実現したいといふ。その条件の一つが、日本側は頭山翁を派遣すること、もう一つが東条内閣を打倒することだった。 小田は頭山翁との仲…
狙撃や暗殺事件は、被害者の名前が大々的に報じられても、実行者の名前はすぐに忘れられる。 小田十壮は昭和11年2月21日、美濃部達吉を狙撃し、負傷させた。小田の回顧録が『私が抱いた浪人道 終戦前夜のうら話あれこれ』。奥付はなく、自序・後記が昭…
文学者は皆検閲に反対してゐたのかといふとさうでもない。『月刊随筆 博浪沙』の昭和14年4月の号に三角寛が「検閲のこと」と題して書いてゐる。三角といへばサンカ小説の第一人者。 三角は今迄一度も検閲に抵触したことがないさうで、出版社の方で勝手に…
『月刊随筆 博浪沙』の昭和14年2月の号を見てゐたら、李鴻章を狙撃した小山豊太郎がゐた。 田中貢太郎「記憶に残る人々(二)」で、小山六之助翁の名前で描かれてゐる。 当時も今も、講和交渉を不利にさせたとして評判はよくないけれども、田中は理解を見せ…
続き。永田が自由に行動できた理由の一つとして、下中弥三郎の協力もあった。桜井忠温の計らひで、平凡社の大百科事典、陸軍画報、海軍画報、淑女画報などの客員や支局長代理として各地に行くことができた。腕章ももらった。 玄洋社との繋がりもでき、頭山翁…
面白くて、頁を繰るのが惜しくなるほどだった。 『女傑一代』(毎日新聞社、昭和43年8月)は永田美那子の半生記。万朝報の女性従軍記者第一号で、陸軍省つはもの新聞班嘱託として渡満。それだけでなく軍の諜報活動に従事し、生死の境を何度も潜り抜けた。最…
続き。同書には「献本受難」の項もある。 淡路が本を出版した際、茨城の天狗洞文庫といふところから手紙が来て、無料で寄贈してほしいといふ。見ず知らずの他人なので放ってをいても一向にあきらめず、何度も手紙を寄越す。 これ程懇望してゐるのだから、一…
淡路圓治郎は歴とした心理学者で専門書もあるけれども、随筆にもその才を発揮した。 『漫筆 落書帖』(中央公論社、昭和15年1月)には、ある男の活字中毒の症状が綴られてゐる。 むつくりと朝の床を蹴つてから、ぐつたりと夜の床にのめり込むまで、四六時中…
売文社、黒龍会、やまと新聞と左右を経巡った北原龍雄。戦中の動向を綴ったのが「八路軍情報‐ベトコンゲリラからの回想‐」。『人物往来』の昭和40年10月号に発表し、表紙にも掲げられてゐる。 北原は昭和13年から5年間、参謀本部から委嘱を受け、八路…
『脱狼群』(鈴木長城、富士書房、昭和28年2月)の著者は、肩書に元国府軍特務少将とある。鈴木は終戦後の混乱から邦人を守るため、中共側に立って協力。しかし叛乱を起こして、次に国民党系の地下工作員として活躍した。満洲の吉林を舞台に日・共・国・鮮…
昨日も今日も寒い。 『想い出 わが青春の與謝野晶子』(與謝野迪子著、三水社)を読む。昭和59年8月が第一刷で、手元のものは10月の第三刷。 著者は明治39年、大阪船場生まれ。與謝野晶子の長男と結婚した。義母とあるのは晶子のこと。結婚式の出席者に…
杉浦幸平は明治30年4月〜昭和51年2月の教育者。森信三と同郷で、共に愛知県第一師範学校で学んだ。西晋一郎に師事したところも似てゐる。小学校の先生だったためか知る人は少ない。 しかし『自伝』(非売品、昭和52年)は詳細で、心情も足跡もよく伝は…
『最後の特高警察』(白川書院、昭和48年2月)は、京都で特高警察をしてゐた銅銀松雄の著。「小説ドキューメンタリー」「自叙伝であり、小説」とあり、帯には「今だから話せる特高警察の真相」とある。 大本の出口宇智麿との奇縁、同志社のデントン女史強制…
『新時代』大正7年6月号に、杉中種吉が「やまと新聞論」を書いてゐる。やまと新聞は花柳界の記事を載せる小新聞だった。しかし松下軍治が社長になってからは、国家主義の傾向を強くした。軍治が亡くなってからは息子で東京帝大出の松下勇三郎が社長を務め…
『自伝 不折の道』(昭和49年10月)は脊山藤吉が自分史を綴った私家本。200頁に満たない小ぶりのもの。しかしお仕事が左翼、右翼などの思想を取り締まる兵庫県警特高課勤務の警察官。のちに内務省警保局保安課。思想捜査の実際がわかる。 その頃左翼運…
玄洋社は改称前に向陽社といった。しかしこの向陽といふ文字が、太陽を象徴する天照大神の子孫である、天皇に刃向かふと読めるなどといった意味の意見が出て、玄洋社に改称されたといふ。 しかしこれには予々不審で、京都には向日市がある。宮崎は日向国とい…
『白天録』(昭和44年11月発行)は加藤普佐次郎の遺稿集・追悼録。 加藤は九州帝大医学部助手、松沢病院勤務・居住、日本指圧学院副校長、明治大学教授などを歴任した。 今般世界内閣改造ニ付、軍用金トシテ百億万円蘆原将軍ニ納ムル事 大正拾壱年四月拾日…
続き。目を引かれるのが、津末の信心深さ。牛込南蔵院の歓喜天、伏見稲荷、外宮、牛込の霊媒師竹内喜太郎を信じてゐた。少し詳しく触れられてゐるのは上田霊光。 昭和に入つて後は霊南坂に住んだ上田霊光という予言者を信じ、これは死にいたるまで信じて居つ…
『津末良介』(津末良介翁伝記編纂委員会、昭和27年1月)の津末は大分県出身の弁護士・代議士。委員長は中根貞彦で、編集の中心は御手洗辰雄。 世に知られないのも道理で、「世間的には決して成功者とはいえない」(中根)、「公人として殆ど事業を残せない型…
『昭和史を歩く 同時代の証言』は第三文明社、昭和51年7月刊。左の人たちのインタビュー集で、対象は高橋亀吉・小牧近江・福本和夫・石堂清倫・浅野晃・脇村義太郎・正木ひろし・対馬忠行・淡谷悠蔵・細谷松太・山口武秀・いいだももの12人。 インタビ…
『瓢々録』(昭和40年2月19日発行、私家版)は、今年で没後50年を迎へた尾崎士郎の追想録。寄稿者は交友の広さを物語るやうに、137人に及ぶ。茂木久平、添田知道、大木惇夫、水野成夫、浅野晃、今里広記、山崎一芳、田辺茂一、豊田一夫、石田博英、…
『東洋評論』は赤松克麿が創刊した雑誌で、昭和31年3月発行の第5号が赤松の追悼号。編集委員は猪俣敬太郎・市瀬正幸・津田官・毛呂清輝・入江一。諸家が思ひ出を寄せてゐる。 津久井龍雄は「転向が機縁で結ぶ」。 赤松君の告別式場で、誰かが同君の生前…
続き。同書には後楽園スタヂアム社長の田辺宗英も出てくる。市村は昭和21年ごろ、銀座のキリンビヤホール跡地を買ひ取った。 その取引が成立した直後、市村の事務所におかしな風体の数人の男が面会を求めてきた。何事だろうと会ってみると、田辺拳闘倶楽部…