杉浦幸平「私は本を読むために生れて来たようでもあった」

 杉浦幸平は明治30年4月〜昭和51年2月の教育者。森信三と同郷で、共に愛知県第一師範学校で学んだ。西晋一郎に師事したところも似てゐる。小学校の先生だったためか知る人は少ない。
 しかし『自伝』(非売品、昭和52年)は詳細で、心情も足跡もよく伝はる。
 面白いのは昭和9年、『明治天皇御製と皇国精神』の刊行経緯を著した部分。

不図したことから大発見をした。即ち修身で教える事項の根本精神とか、その真髄とかいうものは悉く御製の中に網羅されてあるということである。また御製だけで道徳体系を組織してみたら、世にも稀な国民道徳書ができるであろう、と思うようになった。

また一つ重大事を発見した。即ちどの一首一首も、単独に出て来たものでなく、明治天皇の御魂から、それは道徳宗教の一体となるところから、一本の樹から多くの枝葉根が出てくるように、創生されたものだと気がついた。

 修身で御製を取り上げると、児童からは「天皇様はこれほどまで私たちのことを思っていて下さったのか」「お心はやさしいお方だ」「世渡りの生字引だと思うようになった」と、感動の言葉が寄せられた。卒業後も、「悲くて心がむしゃくしゃする時、御製を読むと、自分の悪かった事を教えて下さいます」といふ手紙が来た。
 御製をまとめて活版印刷したが予約は少なく、1000部に満たなかった。商売や売名が目的だといふ噂も立った。そこで御製拝誦の著書を書かうと決めた。
 当時、すでに御製の解説書も刊行されてゐたが、「徒らに抽象的な形容詞を使って聖徳の宏大を力説していても、その言葉通りの実感を伴うものがなかった」。
 執筆中は寝ても覚めても御製のことで、体重も8キロ減った。西晋一郎からは早く出版せよと言ってきたが、これだけは師に反し熟考した。
 のちにこの本は文部省が昭和13年に刊行した冊子「良書選奨」に掲載された。大正11年以来17年間の発行物が対象で、僅か147冊が選ばれた。その他の著者は大学教授や文学博士で、小学校訓導は杉浦ただ一人。「私は一躍天下の大先生として待遇されるようになったが、思うに世の中は思わぬ事の起る所である」。

私は師範学校では決して優等生ではなかった。人に勝れた頭脳をもっていなかった。それがこういう仕事が出来たのは、事の成る成らぬは、決して頭のよし悪しだけではない。学歴だけのものでもない。記憶力が悪くても決して悲観するものではない。

 謙遜してゐるけれども、本だけはよく読んだ。

一頃は飯を食べながらも本を読んだ。遊びに出かける前の支度には、どの本を持って行こうか、と必ず考えた。(略)弁当箱を忘れても本を持って行くことを忘れなかった。(略)何だか知らぬが読書は私の人生であった。私は本を読むために生れて来たようでもあった。

体験から導き出した読書論も良い。

即ち本はその時その時代の流行書を人より前に読んで、教育界の先端を行こうとしない方がよい。また数多く読んで、何でも知っていなければ、肩身が狭いように思うのは本当の学問ではない。殊に倫理道徳や哲学や宗教に関するものは、時代の推移を超越して、万古不易のものを徹底的に読むべきである。何時の世でもそうであろうが、著述や出版の氾濫時代に於いて、金儲けや売名のために書いたり、書かせられたり、未熟というよりは、理論だけで満足して、足が地に着いていないような新説を漁り、これを追うのは、結局、読めば読むほど、真実から遠ざかり、自分自身を失うに至るであろう。

 友人の森信三とは寮が同室でいつも語らった。神道にも傾倒し、筧克彦に心酔した。しかしいつしか離れた。

これ(『神ながらの道』)を欲する人は後を絶たず、古本屋へ出てもすぐ無くなるといった人気本であった。けれども私はこれを手に入れることができた。しかしながら筧神道は西洋哲理と仏教哲理とで無理にでっち上げたという感じがしてきた。始めの間はその理論的なところに心引かれていたが、これは無理を無理とも知らず頭脳の働きだけで体系化しているということを感ずくようになった。

 そして明治天皇御製にたどり着いた。