賀川豊彦の名前の由来

 『白天録』(昭和44年11月発行)は加藤普佐次郎の遺稿集・追悼録。
 加藤は九州帝大医学部助手、松沢病院勤務・居住、日本指圧学院副校長、明治大学教授などを歴任した。

今般世界内閣改造ニ付、軍用金トシテ百億万円蘆原将軍ニ納ムル事
 大正拾壱年四月拾日
                          蘆原将軍
総理大臣 高橋是清閣下

土耳古国総理「ケマルパシャ」閣下ヲ回々教国聯盟総統ニ任ス
 大正拾壱年五月拾日                蘆原将軍
  回々教信徒参億五千万  御中

 など蘆原将軍の辞令が沢山引用してある。意外に国際情勢にも詳しい。
 中野組合病院を設立するため新渡戸稲造賀川豊彦らと奔走したこともある。
 加藤の名前は、「普く人を佐(たす)ける」といふ意味がある。あるとき、加藤は賀川に直接、名前の由来を聞いてみた。

 それは、豊受大神猿田彦命の信心から、父がつけたものである。ああそうですか、判りました。伊勢の外宮なる豊受大神猿田彦大神と直ぐにその父上の信仰を理解し得えます。先生の精神は最初から、皇太神宮の隣の外宮に祈念せられている。先生年来の信仰、精神運動の間に明白になっておる。日本にキリスト教を奉ずる者多しと雖も、その人生の出発点に於て、外宮を祈念しておるものはあまり多くないことでしょう。否、キリスト教徒のみならず、裁判官でも、警察官でも、生れたその日に於て豊受大神猿田彦命に合掌し、これを拝みこれを中心として、我子の一生を捧げると決心した親を持った者は少ないでしょう。この意味に於て先生は、生れながらにして皇大神宮のお側の宮を尊信し、これに深き信念を保つ、特別な立場に於て出発せられたのである。先生は実に特別なる神の恩寵を、出生の日に於て実父から明白に授けられたものであり、今日、人類の一人として、日本帝国に籍を持つ者の最右翼に立つべく運命づけられたひとであります。

 豊彦といふ名前は、豊受大神の豊、猿田彦命の彦から採られた。賀川の活躍もその恩頼によるものだといふのであらう。たとへそれがキリスト教に関するものであっても。