伊東かう『伊東かう遺歌集』は昭和42年2月25日発行の非売品。発行所の記載なし。114ページ。謹呈の挨拶文は7月なので、配布されたのはその頃か。故人の写真が貼り付けてあるので発行部数は多くないと思はれる。序文に当たる「母を想う」を息子の伊東栄が書いてゐる。あとがきと年譜を合はせて読むと生涯が分かる。
伊東かうは明治18年10月、陸軍軍人の山本誠喜の次女として東京麹町に生まれる。28年に父が戦死し、36年に2代目伊東栄と結婚。栄は有毒な鉛を使はない白粉の化粧品会社、伊東胡蝶園を経営。昭和4年に夫が死去したとき、かう45歳。40年2月、79歳で亡くなる。8人の子供を養育した。4人が出征して全員帰ってきた。次男の正保はハンセン病の研究者。親族に国会議員や大学関係者もゐる。収録された歌は昭和15年から39年のもの。土屋文明に師事し、家族や自身の身の上を詠んだものが多い。
昭和19年の歌
男の子らを珠玉(たま)と育てて砕かしむ日本の母ぞ嘆かじわれは
男の子を育てて文字通り玉砕させるのが日本の母だと詠ふ。
無為にして病に死にし吾子おもふ出陣の若人ら羨(とも)しくもあるか
戦局が苛烈になるなか、若者が出征してゆくのが羨ましくもある。わが子は病死してしまってその場にはゐない。男はこんなときにお国の役に立ってこそだといふのに。
昭和21年の歌
はからずも駅の歩廊に復員のわが子に遇ひぬただ泣きにけり
品川駅で偶然栄と再会した。ほかの息子たちも次々に復員した。三男基保は南方で死んだと聞かされたが実は生きてゐて帰ってきた。
生命(いのち)絶つと額にあてし拳銃の弾丸(たま)出でずして死なざりしと云ふ
「自決しようとしたが拳銃の不発で死ななかった」。鉛の弾丸が出なかったおかげで命拾ひをしたと息子が語るのを母はどんな気持ちで、どんな顔で聞いただらうか。
昭和28年の歌
逝くもよし生くるも楽し現(うつ)し世も彼岸にもわれを待つ人ありて
死んでも生きてもどちらでもよい。どちらの世界にも私を待ってゐる人がゐる。心の平安を歌った歌。さらに詠み続けて昭和39年の歌。
この頃は生きるを憂しと思ふのみ無為に過ぎゆくわれの明暮れ
逝くもよし生くるも楽しとよみたりし三年のむかしなつかしきかな
「逝くもよし」の歌は3年前のことだとしてゐる。写し間違ひか原文ママかは不明。いづれにしてもそれはもう昔のこと。この頃は生きるのに嫌気がさしてゐる。なにをするでもなくただ一日が過ぎてゆく。白内障で好きな読書もできない。昭和19年に息子を詠んだ歌の「無為」がここにも出てくる。人は有意義に生きねばならない。それなのに病気で思ふやうに動けない。これでは生きる意味がない。もう「生くるも楽し」などといふ心境ではゐられなくなってしまった。戦中戦後の心をみな歌に詠んだ伊東かう。亡くなったときは子供孫曽孫に囲まれてゐた。




















