伊東かう「逝くもよし生くるも楽し」

 伊東かう『伊東かう遺歌集』は昭和42年2月25日発行の非売品。発行所の記載なし。114ページ。謹呈の挨拶文は7月なので、配布されたのはその頃か。故人の写真が貼り付けてあるので発行部数は多くないと思はれる。序文に当たる「母を想う」を息子の伊東栄が書いてゐる。あとがきと年譜を合はせて読むと生涯が分かる。

 伊東かうは明治18年10月、陸軍軍人の山本誠喜の次女として東京麹町に生まれる。28年に父が戦死し、36年に2代目伊東栄と結婚。栄は有毒な鉛を使はない白粉の化粧品会社、伊東胡蝶園を経営。昭和4年に夫が死去したとき、かう45歳。40年2月、79歳で亡くなる。8人の子供を養育した。4人が出征して全員帰ってきた。次男の正保はハンセン病の研究者。親族に国会議員や大学関係者もゐる。収録された歌は昭和15年から39年のもの。土屋文明に師事し、家族や自身の身の上を詠んだものが多い。

 昭和19年の歌

 男の子らを珠玉(たま)と育てて砕かしむ日本の母ぞ嘆かじわれは

 男の子を育てて文字通り玉砕させるのが日本の母だと詠ふ。

無為にして病に死にし吾子おもふ出陣の若人ら羨(とも)しくもあるか

 戦局が苛烈になるなか、若者が出征してゆくのが羨ましくもある。わが子は病死してしまってその場にはゐない。男はこんなときにお国の役に立ってこそだといふのに。

 昭和21年の歌

 はからずも駅の歩廊に復員のわが子に遇ひぬただ泣きにけり

 品川駅で偶然栄と再会した。ほかの息子たちも次々に復員した。三男基保は南方で死んだと聞かされたが実は生きてゐて帰ってきた。

生命(いのち)絶つと額にあてし拳銃の弾丸(たま)出でずして死なざりしと云ふ

 「自決しようとしたが拳銃の不発で死ななかった」。鉛の弾丸が出なかったおかげで命拾ひをしたと息子が語るのを母はどんな気持ちで、どんな顔で聞いただらうか。

 昭和28年の歌

逝くもよし生くるも楽し現(うつ)し世も彼岸にもわれを待つ人ありて

 死んでも生きてもどちらでもよい。どちらの世界にも私を待ってゐる人がゐる。心の平安を歌った歌。さらに詠み続けて昭和39年の歌。

この頃は生きるを憂しと思ふのみ無為に過ぎゆくわれの明暮れ

逝くもよし生くるも楽しとよみたりし三年のむかしなつかしきかな

 「逝くもよし」の歌は3年前のことだとしてゐる。写し間違ひか原文ママかは不明。いづれにしてもそれはもう昔のこと。この頃は生きるのに嫌気がさしてゐる。なにをするでもなくただ一日が過ぎてゆく。白内障で好きな読書もできない。昭和19年に息子を詠んだ歌の「無為」がここにも出てくる。人は有意義に生きねばならない。それなのに病気で思ふやうに動けない。これでは生きる意味がない。もう「生くるも楽し」などといふ心境ではゐられなくなってしまった。戦中戦後の心をみな歌に詠んだ伊東かう。亡くなったときは子供孫曽孫に囲まれてゐた。

 

 

クリスマスイブの神風連の乱

 渡辺京二『神風連とその時代』は中公文庫で令和8年5月に刊行された。西南戦争や佐賀の乱など同時代の反乱との違ひは何か。神風連の乱の特異性を浮かび上がらせる。師の林櫻園は蘭学も含めた幅広い学問を修めたのに、乱の参加者たちはなぜ西洋を排斥しようとしたのか。彼らを一人一人掘り下げて全体像を描いた名作。初版は葦書房から昭和52年に出版された。

 今回の中公文庫版は解説の髙山文彦氏が三島由紀夫や江藤新平の曽孫の江藤小三郎の自決、蓮田善明を取り上げ、神風連とのつながりを示す。初公開の神風連日記(抄)も渡辺の創作の様子や心情が垣間見えるもので、刊行の意義があった。

 それだけに、誤植が訂正されないままだったことが残念だった。P223に「十二月二十四日夜の一挙は神がすでに嘉した戦さ」とある。すぐあとのP227に「十月二十四日夜の反乱」とあるやうに、神風連の乱は10月24日。12月24日はクリスマスイブだ。

 P63に「彼らの遺書は不幸をわびる言葉で始まり、そして終っている」とある。不幸か幸福かは本人の問題で、家族にわびるものではない。親の老後の面倒を見ずに先立つ不孝をわびるのでなければをかしい。P73に「ついに御幣振り御礼の配りとあいなり規模偏少笑うべし」とある。佐々友房の手紙の一節だが、オレイの配りでは意味をなさない。お札の配り、神社のオフダ配りでなければならない。P176には「壌夷をとげる」が出現する。もちろん攘夷が正しい。P223には「素撲な疑い」が見える。これは「なぐる」の撲。素樸でなければならない。P248には「刀剣ヲ帯ル事ハ綿迎邈タル神代固有ノ風儀」といふ謎の文字列が現れる。綿迎邈では意味が通らない。これは綿邈と書いてメンバク。はるか遠いことで、古事記にも載ってゐる。これに関係ない迎の字が混入してゐる。ほかにもあるかもしれないが十分だらう。

 この書は初版が昭和52年の葦書房版、出版社を移して洋泉社のMC新書版が平成18年6月に出てゐる。平成23年7月の洋泉社の洋泉社新書y版はこれを踏襲したもの。今回の中公文庫で4冊目・3社目で、49年にわたって刊行されてきた。調べてみると、「十二月二十四日」「不幸をわびる」は初版のときからのもの。一方「御礼配り」「壌夷」などは初版には見えず、2社目の洋泉社版で誤植が発生してゐる。これは読み取り機にかけたときに機械の精度が低かったためと思はれる。洋泉社版を底本として採用した結果、増えた誤植もそのまま訂正されずに残った。しかしたとへさうだとしても、社内の人間が一度読めば容易に分かるほどの単純なミスだと言はざるを得ない。誰も本など真面目に読んでゐないし、誰も本など真面目に作ってゐないのだらうか、と言ひたくなる。

 

葦書房版の「御札の配り」



中公文庫版の「御礼の配り」

 

 

 

・埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催中の歴史特集展示「二・二六事件と昭和」を見に行く。9月13日まで。大きなケース2つ分。丁度ボランティアの男性ガイドの方が、男女2名を案内してゐた。「このコーナーを熱心に見るのはシガクブに在籍してるやうなマニアックな人ですから…」といふのが聞こえてショックを受ける。その人たちは移動してしまったので気を取り直して熱心に見て、撮影可能なのでたくさん写真を撮った。事件の参加者には埼玉県出身者も多く、積極的に行動したといふ。「尊皇討奸本部」ののぼりは、鎮圧側の埼玉出身の兵士が奪取したもの。上部の欠けはそのときのものだらうか。安藤輝三の軸は私信のやうな内容を大書してゐる。どれも第一級の史料でよかった。

 8月30日までの企画展「土をこねこね1万年~土製品の考古学~」は人や動物の埴輪、土偶、人面付き土器などがたくさん展示されてゐて、マニアックな人でなくても楽しめる。

高橋静虎「人は神である」

 『大聖二宮公ト誠』は高橋静虎講演、軍事教育会発行、大正7年5月発行。大聖とは高橋が二宮尊徳にささげた称号で、尊徳は釈迦、孔子、キリスト、ソクラテスなどよりも優れた大聖人であるから。尊徳は空理空論ではなく、誰でも実践可能な教へを広めた。そのやうな世界無二の尊徳を生み出せたのは、わが國體が世界無二であるからだ。…と、國體や天皇論、戦争論や神観念などに展開してゆく。講演録なので分かりやすい。
 尊徳は「生きて鯖の魚が死して鰹節となるの理なし」と言ってゐる。死んで鰹節になるのは、生きてゐるときに鰹だったからだ。鯖が鰹節になる筈がない。人間もこれと同じで、人は一般に死んだら神になるとか仏になるとかいはれるが、これは生きてゐるときから神や仏であるからだ。人は生前から神であり、仏である。「必ず人は神の子であり、神であると云ふことを、的確に自覚しなければならぬのであります」

人は神である抔と申しますと、或は迷信者の様に、或は忘想狂の様に想ふかも知れませんが、併し私は、斯の如き人達の、不明無智に驚かざるを得ない許りでなく、其の自ら信じ、自ら尊ぶ所の観念の乏いのを、憐まんければならぬのであります。

 人は神であるなどといふと迷信家や頭がをかしい人のやうに思ふかもしれないが、さう思ふ人の方が無智であり、かはいさうな人たちだと思ふ。と、同情する。軍事に関する事項にも紙数を割く。日清戦争当時、世界の人々は日本が支那と戦ふなど「甚だ無謀」「到底勝つことが出来ない」と思ってゐた。

我々軍人と雖も、実は意外の思ひをしたのであります。実に一面から見ると、不思議であつたのであります。支那は、兵は多く、其れに兵器抔も仲々善かつたのであります。

 日露戦争でも同様のことが再現された。

或は皆様の中には、支那の兵や露西亜の兵は、弱いのではないかと想ふ御方もあるかも知れませんが、どうしてどうして支那の兵も、露国の兵も、弱いどころではありません、彼等は体格も良く、且つ勇気に富んで居つて、兵としての素質は、確かに我に優つて居るのであります。

 敵は強く兵器も優れてゐた。なぜ日本が勝つことができたのか。当の軍人さへ不思議に思ってゐた。日露戦争後は欧米から武士道がその理由だと注目されたが、もっと重要なことに気付いてゐない。それは日本が神国であるといふことである。

我国が神国であり、神の御心を以て心とする国であるが故に、誠を精髄とし給ふところの 明治天皇様の 勅諭が、我軍人に大感動を与へ、大自覚を生ぜしめて、其処に御神徳は加はり、神力は生したるのみならず、両戦役共に、名、正しく、義、直きを以て、尚ほ天佑神助の加はるありて、為に二大戦役に不思議の大捷を贏ち得たと云ふことに、心着かないのであります。

 明治天皇は天照大御神そのもので、現神(あきつかみ)であらせられる。明治天皇がお下しになった軍人勅諭を奉じたので、日本は勝つことができた。歴代の天皇は天照大御神の御延長。ただしここで、天皇に関して機微に触れる理論が展開される。

併し天に明暗あり、日に晴雨あるが如く、代々の 天皇様は、皆等しく 天照大御神様の御延長に渡らせられ、現神に渡らせらるゝも、其の御徳の御顕はれは必ずしも一様ならずして、現著に渡らせらるゝことあり、現著に渡らせられざることであります。

 歴代の天皇は天照大御神であるが、その現れ方は同じではない。はっきり現れないこともある。これは平たくいへば、天照大御神らしくない天皇もゐると言ってゐるのではないか。「明治天皇様は 御歴代中稀に拝し奉る程の御盛徳」といふ表現も、明治天皇を称揚するあまりに他の天皇と比較して品評するやうな弊に陥ってゐる。これを過去ではなく未来に応用するとどうなるであらうか。
 日本と外国との関係に目を転じると、外国の軍隊も日本のやうに随神の道を守り随神の道を実践すれば、神の徳を得ることができると説いてゐる。神の目から見れば、国に違ひはない。

唯物には順序がありますので、其れで神は、我国を世界の中心国となし、我国を世界の模範国とせられて、世界をして我国に倣はしめ、世界をして我国を通じて神の教、神の道を知らしめんとせらるゝ大御心ではなからうかと思ふのであります。

 外国も神の教、神の道を知ることができる。しかしそれには必ず日本を模範とし、日本を経由しなければならない。外国を排除するわけではないが、日本と外国は同列ではない。そのやうな意識がうかがへる。
 講演のための弁論術なのか、異なる意見を取り込み、自説を補強してゆく特徴が見られる。外国人の意見もそのために採用される。来日したフランス人哲学者、ポール・リシャールの言葉が日本に広められたが、この冊子にも取り上げられてゐる。

氏は、今の皇太子が、世界を御統一遊ばさるゝ御方であらせらるゝと申して居りまして、其の妻君の如きは、殿下の御一つの時からの御写真を、持つて居ると云ふことであります。

 のちの昭和天皇は世界を統一する。リシャール夫人が持ってゐた1歳の御写真といふのは、旭日旗を掲げられてゐるものだらう。今でもネット上などで同じ物を見ることができる。それにしてもリシャール夫人は、なぜ昭和天皇の写真を持ってゐたのだらうか。夫の思想とは関係なく、偶然店頭などで見かけたお土産品の日本人の姿があどけなく、かはいらしかったから。写真に写ってゐるのが誰かも知らなかった。それを高橋がいかにも意味ありげに紹介した、といふのが一つの考へだが別の見方もできる。夫人も夫のやうに、いや夫以上に未来の天皇が世界を統一する夢を紡ぎ、胸を高鳴らせてゐた。それでいつも大事にして熱いまなざしを送ってゐた。夫が譲ってほしいと言っても渡さない―。どちらか真実に近いかは分からない。書かれてゐないことは想像することしかできない。

 

 

 

内閣情報部「われ等の祖先はその敵を呼ぶに神を以てした」

 『聖戦の意義』は奥付なし、表紙に内閣情報部、表紙裏に昭和15年4月20日とある。21ページの小冊子。いかにもプロパガンダ風の書名で敬遠する向きもあるかもしれないが、何でも読んでみると発見があるものだ。この文章の筆者は、日本が古来、智を重視してきたことを振り返る。

進歩性は必然的に智を尚ぶ。蓋し智を重んぜざる所に進歩はあり得ないからである。智は又情意に正しき進路を与へて、之を眞の仁愛、眞の武勇たらしめる。(略)智を尚ぶことは肇国以来大に重んぜられた。

 三大徳目を智仁勇といふが、智があってはじめて仁や勇が真価を発揮する。智こそすべての基礎であり、「わが国家統治の根本原理中に尚智の精神があり」…と、尚智の精神を強調する。武をたっとぶ尚武の精神なら馴染みがある。端午の節句で菖蒲湯に入るのは尚武とかけてゐるから。しかし「聖戦の意義」を説くこの冊子では尚武の精神ではなく尚智の精神こそ日本の基本的徳目だといふ。「日本民族は断じて戦ひを好むものではない」。ただ説得に応じず、服従しない者に対して、やむにやまれず正義の剣を振るふのだ。敵に対しての心構へにも注意を促す。

古典に依ればわれ等の祖先はその敵を呼ぶに神を以てした。或はまつろはぬ神といひ、或はあらぶる神といひ、或は蛍火のかがやく神と呼びその敵の大小強弱によつてその名を異にしたが何れも之れを神と認めた。(略)多くの国に於ては啻にその敵を神と認めないどころか人間以下の畜生として之を卑しめ憎むのが常である。

 わが日本の古典では敵を神と呼んだ。これは相手を尊重して敬意を込めたからである。よその国では敵を人間以下の畜生としてゐるが、日本はそんなことはしない、と矜持を滲ませてゐる。当時人気を博した漫画の「のらくろ」では日本軍は犬、中国の軍隊は豚として描かれてゐる。動物同士の戦ひとはいへ、内閣情報部の主張とは正反対だらう。戦後のわたしたちは、戦時中の日本が鬼畜米英といって戦争をしたことを知ってゐる。まさに「多くの国」と同列に堕して敵愾心をもって戦争を行った。日本の古典には土蜘蛛など、敵を人間以下の存在として記述した部分もある。しかしこの文章の執筆者は、敵を神と呼んだことの方を特筆してゐる。

 「鬼畜米英」の発生については日米開戦当時にはみられなかったことなどの研究がある。大陸での戦ひは「暴支膺懲」といった。これを「鬼畜暴支」や「膺懲米英」などとはいはなかった。尚智の精神といひ、敵を神と呼んだ故事といひ、この冊子の主張は現在に殆ど浸透してゐない。内閣情報部の宣伝は失敗し、「聖戦の意義」など顧みられない。「本書の内容はなるべく広く、且つ有効に活用され一般の時局認識徹底に資することを希望する」といふ望みは、デジタル化によって誰でも読めるやうになって叶へられることになった。

 

 

大日本赤子会「不知不識不敬ノ弊風ヲ醸成シツヽアリ」

 大日本赤子会は、「あかご」ではなく「せきし」と読むのだらう。偕行社の恢弘会内に事務局を置いてゐる。会報第2号は昭和9年2月14日発行。表紙裏に昭和6年1月時点での大日本赤子会趣意書が掲げられてゐる。3段落のうち、「皇國日本ノ國體ハ人類約束ノ作爲ニアラズ宇宙眞理ノ表現ナリ」など前半の2段落は宇宙と日本の國體を関連付けた壮大な論理展開になってゐる。しかしさらに特筆すべきは3段落目であらう。

 近代新聞雑誌類ノ著シキ發展ニ伴ヒ高貴ノ御肖像頻々トシテ掲載セラルルニ至リタルハ君臣ノ情義ノ祖風ヲ向上スル所以ニシテ大ニ悦ブベキ現象ナリト雖之レガ取扱法ニ就キ未ダ何等ノ規定ナク事後ノ處理亦放漫遺棄ニ任セ不知不識不敬ノ弊風ヲ醸成シツヽアリ。(略)新聞雑誌等ニ掲載セラルル高貴ノ御肖像ニ對シ事後ノ處理法トシテ尊崇敬虔ノ至誠ヲ表スベキ取扱法ヲ定メ其普及徹底ノ裏ニ皇室観念ノ涵養確保ヲ期スルコトハ一日モ緩ウス可カラザルハ刻下ノ急務ナリト信ズ。

 新聞雑誌に掲載された高貴な方々の御肖像が不敬に扱はれないやう、適切な取扱法を定め、普及徹底させることを目的としてゐる。知らず知らずのうちに不敬になる、といふのが肝心なところではあるまいか。新聞雑誌が大量生産されることで高貴な方の写真が出回ることは、一方で皇室尊崇の念を高めることができる。一方では身近になり過ぎてぞんざいに扱はれたりする。新聞は包装紙、畳や箪笥の敷き紙、便所の落とし紙などに広く使用された。

 東京市第二亀戸尋常小学校長の木村貞治が「高貴御肖像取扱に就て」なる興味深い一文を寄せてゐる。児童は文字よりも絵画や写真を非常に好む。父が新聞を読んでゐるとその写真や絵画に関心を示す。この児童心理を善用すれば、大きな効果が得られるであらう。

厄避の守札は物質的に評価すれば無価値な一木片か一小紙片に過ぎない。然し高い汽車賃や多くの時間を費してまで頂き或は身につけ或は神棚に丁重に祭るのは何の為めか。要するに小木片小紙片に神意の宿るものとして換言すれば神の本体が実在するものとして之を鄭重に取扱ふてゐるのである。物質的価値にのみ関心を傾倒する現代に於て新聞雑誌へ掲載の御肖像取扱上一般に関心の薄いのは実に寒心すべき事である。新聞であらうが雑誌であらうが要は高貴の方々の実在を尊崇するの念慮がなければならぬ。

 新聞雑誌の御写真は神社のお札のやうなもの。物質的には木の切れ端や紙切れに過ぎないが、実は神の本体として取り扱ふべきである。そこで著者の学校では、その取扱方針を定めたとして内容を紹介してゐる。新聞雑誌の高貴な方の肖像写真は、学校制定のブックに丁寧に貼り付けて各自保存させる。ブックの費用は保護者会で補助をして、児童に半額の5銭で頒布する。ブックは購入しなくてもよく、その場合は切り抜きをそのまま学校に持参させ、学校ブックに貼付して永久保存する。

  役員名簿によれば総裁は海軍大将齋藤實、会長は西郷従徳、顧問は荒木貞夫陸軍大臣ら8名。そのほか知名の士が理事に名を連ねてゐる。偕行社内に事務局があり、軍人や教育家が活動の中心のやうだ。皇室、メディア、写真、教育などさまざまな切り口から考察できる団体で、注目したい。

 

 

海軍見習尉官教育部「頭髪はなるべく五分刈とし月2回以上必ず刈れ」

 『躾要綱』は海軍見習尉官教育部発行、昭和18年9月発行。23ページ11章にわたり、尉官が守るべき躾が日常生活に至るまで事細かく規定されてゐる。原文は漢字カタカナ交じりだが読みにくいので引用はひらがなにした。
 第1章は「服装容儀」。「軍帽の顎紐が弛んでぶらぶらにならない様注意せよ」「軍装の『ポケツト』が膨れ出す程物を入れるな又『ポケツト』から物が喰み出ない様にせよ」など25項目が列挙されてゐる。「頭髪はなるべく五分刈とし月2回以上必ず刈れ」とあるのが具体的だ。「頭髪はなるべく五分刈とせよ」だけだと、単なる努力目標で、徹底されない恐れがある。「月2回以上必ず刈れ」とあれば、行動の目安がはっきりして分かりやすくなる。ただし一文に「なるべく」と「必ず」が同居してゐてしっくりしない感じがする。月2回や3回だと現代ではかなり頻繁な気がするが、五分刈りを維持するにはこれくらゐ手入れしなければならないのだらう。「靴下は白木綿のものを使用し垂れ下らぬ様にせよ」とあり、靴下の素材や色まで指定されてゐる。
 第2章は「態度姿勢」。「閲覧室等で着帽のまま書籍新聞等を読むのは宜しくない」「他人の読んでゐる新聞等を盗視するものではない」などと注意してゐるといふことは、さうする人がゐたといふことだらう。
 第5章は「敬礼」。「神社等に各個参拝の場合は脱帽して最敬礼せよ」は分かる。しかし「御写真奉拝神社仏閣大講堂等における拝礼には上体を傾ける角度は少ないよりは寧ろ多い方がよい」とあるのは不審な書き方だ。なぜ「御写真~最敬礼せよ」にしなかったのだらうか。角度は少ないより多い方がよいなどといふのはあまり敬虔さが感じられない。
 第6章は「食事」。「他家を訪問して食事を戴く時はその前後には軽く礼を述ぶるものである」。こんなことも海軍尉官に対してわざわざ言はねばならないのだらうか。小学生並みだ。見苦しいこととしてイロハ順のイからヲまで12項目が挙げられて、最も強調されてゐる。犬食、睨食、ねぎ箸、ねぶり箸、まはし箸、なみだ箸、握箸、諸起(もろおこし)、固食、箸なまり、探箸、受吸について、短く解説が付いてゐる。中には聞いたことがないものもある。
 第11章は「雑件」。8項目中2件は御尊影に関するもの。「御尊影は入箱内に切り取つて入れ毎月末に焼却せよ」「御尊影謹載の新聞紙等は不敬に亘らない様包紙下敷等に使用するな」。もしも切り取りや焼却が徹底されてゐたら包み紙や下敷きにするなといふ項目は不要ではないか。実際にどのやうに運用されてゐたのだらうか。

 

 

蚊が好きな津雲国利

 続き。豪華客船「オリンピック号」に乗って大西洋を横断した市倉眞吾。船上でも活動的な英米人を目の当たりにして、消極的な日本人の前途を案じてゐた。『学友会雑誌』には後輩に当たる在校生の文章も掲載されてゐる。

 旧制中学5年生の津雲国利が「感想一束」といふ随筆を書いてゐる。ある人が津雲に尋ねた。「蚤と蚊とどっちが好きか」「君はどうなんだ」「どっちも好きではない」。そこで津雲は答へた。「蚊が好きだ。蚊は羽音を立てて近づいてから人を刺す。蚤は音も立てずに人を闇討ちする。蚊は名乗りを上げてから戦に臨む武士のやうなもので、正々堂々としてゐる。予は武士道主義の蚊が好きだ」

 蚤と蚊とどっちが好きかと聞いておいて自分はどっちも好きではないといふのは変てこな感じがするが、ここでは津雲が卑怯な振る舞ひを嫌ひ、武士道を重んじてゐたことを確認しておきたい。新渡戸稲造『武士道』の日本語版刊行は明治41年。津雲の文章が載った『学友会雑誌』は44年発行なので、津雲は『武士道』を読んだか評判を耳にしたのではないだらうか。

 休暇の日、友人2人が津雲の元を訪ねてきた。そのうち1人が「吾輩が最も大きい」と言った。別の1人と津雲は体が小さかった。津雲は「3人のうち、誰が大きいと決めることはできない。将来のことは誰にも分からないからだ」と応じた。友人甲と乙は口を揃へて言った。「未来のことではなく、現在のことを言ってゐるのだ」。津雲は「その通り現在のことを言ってゐる。未来のことは誰にも断言できない」。友人甲は「何を言ってゐるのか訳が分からない。興奮するな。落ち着けよ」となだめる。津雲は答へる。「興奮などしてゐない。ただわれわれ3人の大小は誰にも分からない。人の大小は死んだときにはじめて分かるといふ当然のことを言ってゐるのだ」。友人甲はあきれて言った。「今は体格の話をしてゐるのだ」。友人乙は何も言へずただただ目を丸くしてゐる。津雲は反論する。「人間は見た目で判断してはいけない。大小といへば体だけではなく、精神も含めた人物全体の大小を見るべきだ」。

 体格の小さい津雲の負けず嫌ひぶりを示すやうな会話だ。

 人体と蚤と地球の関係を論じた文章もある。「蚤を愛す」「蚤のやうになりたい」といふ津雲。世界が人体だとすれば、人間は蚤のやうなものだ。蚤は小さな体で人体を震動させることができる。蚤は人間界でいふなら英雄や豪傑に当たる。体の小さい津雲だが、夢はでっかく世界を相手にしてゐる。さういへばさっきは武士道にのっとった蚊が好きだと言ってゐた筈だがどうしたのだらう。蚤は闇討ちをするから評価できないのではなかったのか。時系列が逆で、はじめは蚤が好きであとから蚊が好きになったのだらうか。それとも昨日は蚊が好きだったが今日はやっぱり蚤の方がいいな、などと心が揺れ動いてゐたのかもしれない。病気をしてゐたので、とりとめもなく想像を膨らませたともいへる。

 津雲国利はのちに衆議院議員として当選を重ね、防共護国団事件への関与も取りざたされた。 

 市倉眞吾が対抗できるかと危惧した英米と、日本は35年後に戦争を始めた。蚊のやうに武士道により正々堂々と宣戦布告する筈が、外務省職員の不手際により不可能となり、不意打ちの汚名を着せられるやうになる。結果として蚤のやうに奇襲することになった。しかし奇襲は卑怯な悪事であらうか。古来、日本では神が強敵を大量の酒で眠らせて、寝込んだところを討った。皇子が女装して敵を油断させて討った。古事記にも書いてある。正攻法で戦ってゐたら負けてゐただらう。しかし武士道に悖るとして非難する声もあるだらう。日本人が理想とすべきは蚤か蚊か。津雲国利の蚤蚊問題はわれわれも悩ませる難題ではないだらうか。