2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧

高源重吉邸の弔問者たち

『六十の味』(菅原通済、常盤山文庫出版部、昭和31年)の中に、高源重吉死去のことが載ってゐる。高源は新夕刊の社長。文中では「豪傑浪人」。 児玉誉士夫、吉田裕彦君等そのみちの豪傑が深夜なのに馳せつけたのは勿論だが、小林秀雄、今日出海君等ものぐさ…

時雨会でデモを主唱した児玉誉士夫

『黒の灯り―敗戦日本、死ねと言われた男たち』(青柳修道、日本ブックマネジメント株式会社、平成2年12月)読む。著者は気功や東洋医学の先生で、近影はいかにも厳めしい。著書も健康法についてのものばかりだが、本書は実名をあげて戦後日本を描いた小説。…

蜂須賀年子の家庭教師たち

江戸時代に大名だった家が、明治になり華族となったのが大名華族。蜂須賀年子の『大名華族』(三笠書房、昭和32年10月刊)は自身の生ひ立ちを綴ったもの。 母は徳川慶喜の娘、筆子。父の蜂須賀正韶は宮内省式部官。徳川家や皇室とのつながりもあって興味深…

三浦義一「敵を殺すのが勝利ばかりでない」

続き。昭和17年半ば、上海で情報活動をしてゐるといふ岡村中佐が接触してきた。 蔣介石側が日支和平を求めてきたので、実現したいといふ。その条件の一つが、日本側は頭山翁を派遣すること、もう一つが東条内閣を打倒することだった。 小田は頭山翁との仲…

小田十壮「私にとっては雉様様であった」

狙撃や暗殺事件は、被害者の名前が大々的に報じられても、実行者の名前はすぐに忘れられる。 小田十壮は昭和11年2月21日、美濃部達吉を狙撃し、負傷させた。小田の回顧録が『私が抱いた浪人道 終戦前夜のうら話あれこれ』。奥付はなく、自序・後記が昭…

「けしからんことだ」‐広告も検閲しろといふ三角寛

文学者は皆検閲に反対してゐたのかといふとさうでもない。『月刊随筆 博浪沙』の昭和14年4月の号に三角寛が「検閲のこと」と題して書いてゐる。三角といへばサンカ小説の第一人者。 三角は今迄一度も検閲に抵触したことがないさうで、出版社の方で勝手に…