キリストになった赤松克麿

 昨日も今日も寒い。
 『想い出 わが青春の與謝野晶子』(與謝野迪子著、三水社)を読む。昭和59年8月が第一刷で、手元のものは10月の第三刷。
 著者は明治39年、大阪船場生まれ。與謝野晶子の長男と結婚した。義母とあるのは晶子のこと。結婚式の出席者には沖野岩三郎、高須芳次郎、北原白秋高村光太郎の名もある。
 初めの方に、與謝野の親戚で、家族ぐるみの付き合ひをしてゐた赤松克麿が出てくる。著者は姉妹ばかりの中に生まれた。男は弟だけで、兄に憧れてゐた。姉妹は歌や踊りで歓迎会を開催するほどで、その関係は一種異様な感さへ受ける。
 赤松は東京帝大に入学する直前だった。

歯切れのいい標準語で、巧みに語る彼の話は、その内容のみずみずしさ、新鮮さで、未熟な私達の心をとらえた。彼の言う事は、すべて正しく善いことと信じ、その言葉に感動し従うようになっていった。それほど、彼の話術は魅力的で説得力があった。

 姉妹には読書を勧め、流行の歌を教へ、芝居の真似をしたりした。時には「人間にはこの雪のように、汚れない美しいものを見ると、踏みにじりたくなる本能があるのだ」と、その通りに実行して著者を驚かせた。

 私達の克麿さんへの傾倒ぶりは、今になると滑稽でおかしくなるぐらいであった。ある日曜日の教会の説教で、マグダラのマリアがキリストの足に香油を塗って、自分の髪で拭う場面を知った次姉は、「あたし、マグダラのマリア、克兄さんの足を拭く」と、椅子に腰をかけて本を読んでいた克麿さんの足を自分の毛で拭いた。彼は突然とくすぐったさに呆気にとられている。すかさず私も「うちも」と言って、同じように長いお下げ髪の房で彼の足先きを拭った。その時の彼の困りようは、思い出しても気の毒やらおかしいやらである。

 まるでハーレム状態。
 ただかうなった背景には、封建的な、拝金的な、女性差別的な周囲の環境があった。

 とにかく、克麿さんの影響はよきにつけ悪しきにつけ、少女だった私達の心には大きく強いものだった。日曜学校で幼い時から聞いた神様の話、人は皆神の子、金持も貧乏人も、王様も乞食も、神の前では皆平等という教えは、知らず知らずの間に私達の頭にしみこんでいた。けれども現実の世界での不平等が、何らかの形で何とかならぬものだろうか、という思いをぼんやり抱くようになったのは、彼の影響であったと思う。ブルジョアとプロレタリア、そんな言葉を耳にしたのもその頃だった。そして単純にブルジョアプチブルは悪者、プロレタリアは善良で同情すべき人なのだと思った。