有楽文庫発行『時の人』創刊の言葉

続き。昭和25年4月の創刊号には、深町眞光の訪問記事も載ってゐる。大本教では総務兼青年部長で、岡田茂吉は大森支部長。深町の方が遥かに先輩だった。大本と和道会時代には下位春吉と行動を共にした。取材時は熱海で大光明教会の教祖に収まって、他宗批判をしてゐた。
 そんな『時の人』、表紙で「人物専門の大衆誌」を謳ってゐる。発行所は、「東京都千代田区有楽町二の五 輿論会館内 有楽文庫」とある。一風変った社名の由来は、「創刊の言葉」に明らかだ。

 わが有楽町は、丸の内、銀座、日比谷を周辺とする大東京の文字通り中心地帯であり、しかも、日本最大の代表的三大新聞社を擁する、いわばわが国言論文化の中枢的源泉地でもある。それゆえに、もはや〝有楽町〟の地名は、たんに場所的なものではなく、日本文化の表徴的意味をもつところ、といつてけつして過言ではないだろう。この名も由緒深い〝有楽〟の地名に因んで、われら同人はここに出版社〝有楽文庫〟を、この言論街の一角に興し、わが国文化にいささか寄与せんとするものである。

 有楽町は、日本言論文化の中心地だと高らかに宣言してゐる。
 そして「創立最初の定期ものとして雑誌〝時の人〟を創刊した」。
 とびらの言葉として、イギリスの桂冠詩人、ブランデンが一筆を寄せてゐる。
社長は鴨井清光。奥付の編輯発行人は鴨井静雄名義。印刷所は神田神保町一の四六、財団法人美成社。
 最終頁の編集手帳には、

本誌の理想は高くかつてこの国に存在したことのない立派な人物裏〔専〕門の綜合雑誌を世に贈ろうというのが、同人一同の念願です。

 同人は、かつて新聞記者だった者たちで、先輩友人からも応援されてゐる。前途を期待させる創刊号だ。
 そこで次号を見ると、昭和25年7月号だ。6月号が休刊になってゐる。その理由は「編集メモ」にある。

六月号の原稿を印刷所へ廻して一週間後、退社した前編集長が、無断で原稿を全部持ちだし、一、二の社内幹部と策謀して強迫的態度にで、けつきよく手許に戻つてきたときは、すでに時期がおくれ、原稿も半分近く腐つてしまつた。これは要するに私の不徳によるものであるが、しかし、その結果、意外にも早く異分子を一掃しえたことは、将来のプラスかもしれない。

「社告」には、誰々は今後会社と関係なくなりました、と連記してあって穏やかではない。発行所の住所も中央区室町四ノ一。もう有楽町ではない。あれだけ熱っぽく謳ったのに、有楽町で発行したのは創刊号だけだったやうだ。