向陽の二字は不敬に当たるか

 玄洋社は改称前に向陽社といった。しかしこの向陽といふ文字が、太陽を象徴する天照大神の子孫である、天皇に刃向かふと読めるなどといった意味の意見が出て、玄洋社に改称されたといふ。
 しかしこれには予々不審で、京都には向日市がある。宮崎は日向国といった。社内で他の対立が先にあって、口論の相手憎しで社名の難癖に及んだのではないかと思ふ。

 向陽の二字が本来不敬でないといふことは、『日本及日本人』の大正15年8月15日号を読んでも証される。同号は明治天皇崩御を悼む文章が並ぶ。「遺芳余香」は河東碧梧桐の執筆。明治天皇を直接知る人々の談話を取材してゐる。その中に紹介されてゐるのがその名も向陽会。

向陽会といふのは華族の歌詠みの会であります。元来は旧公卿華族が、閑散無事の余り、善からぬ方向に向きはせぬか、といふ先帝陛下の大御心によつて出来た会でありまして、年々少なからぬ御下賜金もありまするし、この会員の詠草は残らず 天覧になります。勿体ないと申すこと位では、陛下の思召の深いことが言ひ尽されませぬ。殊に折々の御製は、高崎男爵が親ら下京して、向陽会の席上に披露されました。其の中の一二首が時々民間に漏れてをるやうでした。

 会員は40人ほどで、明治天皇は一々誰々は巧くなった、相変はらず下手などと批評した。会名の由来は直接書かれてゐないが、「善からぬ方向」と反対の、善き方向に向くやうにといふ主旨だったとも読める。
 向陽社の時代に向陽会があったかどうかはわからないが、向陽が不敬の文言といふ非難には矢張り無理があらうと思ふ。


 同号には三井甲之助「先帝の御製」も載ってゐる。

先帝の大御歌は日本民族の宗教的渇仰の対象である。われら国民は日本語を愛さねばならぬ、これがわれらのまごゝろである。われらは日本民族のために日本語を愛するのである。先帝の大御歌を拝誦し奉るときわれらは日本語のためにつくすべき信念を強むるのである。日本民族がまごゝろは日本語にてうたはれねばならぬ、こゝに歌のいのちがある。