いつもにこにこ小山豊太郎

 『月刊随筆 博浪沙』の昭和14年2月の号を見てゐたら、李鴻章を狙撃した小山豊太郎がゐた。
 田中貢太郎「記憶に残る人々(二)」で、小山六之助翁の名前で描かれてゐる。
 当時も今も、講和交渉を不利にさせたとして評判はよくないけれども、田中は理解を見せる。なにしろ当時は「日本人としては肉を啖つても飽きたらなく思つてゐた際だつた」。「狂気に近い所業ではあるが、国を思ふ至誠と云ふか、この一片耿々の心は買つてやらなくてはならぬ」。
 一般庶民にもその名は知れ渡り、キンボキンボといふ囃子がついたキンボ節の歌詞に小山が出てくる。

或は野に伏し山に寝ね、難なく馬関に上陸し、市中の混雑さいはひと、隠し持たるピストルを、トンと云はした一発に、そこらで馬関が大騒ぎ、憲兵巡査のそのために、捕縛されたる豊太郎、

 と、群馬に生まれてから北海道に護送されるまでの様子が唄はれてゐる。

 明治40年、田中が同郷土佐の文豪、大町桂月を訪ねたところ、先客が小山だった。
 

小兵な何時も口元をにこにこさしてゐる男が来てゐて、穏な女のやうな声で話してたが、それが帰つた後で桂月先生が、「君、あれが、小山六之助だよ、」

 田中は小山の獄中記を出版する仲介もし、交友をもつやうになった。
 小山は伊藤痴遊の家に寄宿。「文学に趣味を持つて短篇小説なども書いてゐた」。

 この小山をモデルにした山田風太郎の小説が「牢屋の坊っちゃん」。文中では自由党の壮士然とした姿で、一人称は「おれ」。しかし実際は「僕」で、話し方も女のやうにやさしかったといふ。どちらかといふと赤シャツだ。
 
 山田は狙撃犯といふ先入観で粗野に描いたのだらうが、今度誰かがモデルにすることがあったら、さういふ人を充ててほしい。