正木ひろし「御製なんか何べん読んだかわからんよ」

『昭和史を歩く 同時代の証言』は第三文明社、昭和51年7月刊。左の人たちのインタビュー集で、対象は高橋亀吉・小牧近江・福本和夫・石堂清倫・浅野晃・脇村義太郎・正木ひろし対馬忠行・淡谷悠蔵・細谷松太・山口武秀・いいだももの12人。
 インタビュー構成・編者が松沢哲成・鈴木正節となってゐるけれども、誰が誰にインタビューしたかは明記されてゐない。
 巻末の人名索引がしっかりしてゐて、8頁に及んでゐる。
 まえがきに「ここ百年ほどの日本の歴史は、日本の支配階級が、日本の民衆とアジア人民の生活を抑圧し、その利害を利用・搾取し、その意見と気持ちを踏みにじった過程であった」とある。刊行当時はかういふ史観が普通だった。
 正木ひろしへのインタビューは前年11月18日に行はれ、12月6日に逝去した。
 正木は意外に右翼との縁があって興深い。『日本新聞』でも働いてゐた。略歴などで「雑誌の編集」をしてゐたといふその雑誌は、実は北署吉の『祖国』のこと。しかし正木自身は右翼雑誌といふ認識はなかった。「川端康成だとか、高田保だとか、土田杏村だとか、あるいは『大菩薩峠』の中里介山だとか、そういう一般の人が書いているのだからね。べつに右翼も何もないのではないのですか。左翼の人だって書いているよ。青野季吉なんかも書いているもの」といふ。
 弁護士仲間で、右翼の側に立った角岡知良も林逸郎も知ってゐた。しかし正木の見るところ、それは思想的なものでなかったと言ふ。

(林逸郎は)あれなんかもみんな、思想でどうのこうのというより、あれの親父がね、あれがだいたい陸軍士官学校荒木貞夫と同級生なのですよ。つまり軍人の中では弁護士なんていないので、あれが用いられて、一緒に酒を飲んだりしているうちに、そういう右翼の看板をかけることになるのだよ。看板だよ、だいたい弁護士なんていうのは、そうじゃないのもいるけどね、だいたい役者だよ、みんな。
 弁護士ばかりではない。そのころの登場人物は簡単にいえばみんな芝居です。役者です。役者でないとぼくみたいになってしまうの。

 正木にはさういふ面が強く印象に残ったのであらう。
 個人誌『近きより』で弾圧を避けるために、正木は作戦を立ててゐた。インタビュアーが「天皇詔勅とか御製とかを活用なさったという話ですが」と水を向けた。

よく読んでいたね。なにかで使ってやろうと思ってね。つまり逆手に使うから。その当時は、御製なんか何べん読んだかわからんよ。