有松英義がやまと新聞に紹介した徳永保之助

『新時代』大正7年6月号に、杉中種吉が「やまと新聞論」を書いてゐる。やまと新聞は花柳界の記事を載せる小新聞だった。しかし松下軍治が社長になってからは、国家主義の傾向を強くした。軍治が亡くなってからは息子で東京帝大出の松下勇三郎が社長を務めてゐた。

今日のやまと新聞は、前社長が、官僚系に取入つて其の地位を築き上げたる関係でもあらうが、軍国主義謳歌者たり、国家主義の唱道者たり、皇室中心主義の奉戴者として、軽佻なる民本主義に対抗する程の政治新聞となつて居るのである。

 取り入った例としては、松下が小田原に別荘を建てて水道を引いた際、山縣有朋の別荘にも引き入れさせて歓心を買ったといふ。松下は相場で儲けたり負けたりし、金がある時は社員のためにつかった。

札ビラ切つてドシドシ新社員を買込みもすれば、旧社員と雖も其の能の認むべきものがあると、大に優遇し始めたものである。其れが為一時は社内は小豪傑の寄合で、何等の秩序もないが、常に活発発地、紙上にも精彩を放つて居たものである。

 部長など役職者の紹介があり、なかでも特異なのが外報部長の徳永保之助。

徳永君は、主義の人である。曾つては社会主義赤旗事件に参加したこともあるが、今の法制局長官、其の当時の警保局長有松英義が惜しい男だ、遊ばせて居いては却つて危険だとて、前社長へ紹介して来た程の人物である。

 有松は検閲の傍ら、主義者の就職の世話までもしてゐたんだな。
 徳永はプロレタリア作家だが、どんな気持ちで勤めてゐたのか。