小田十壮「私にとっては雉様様であった」

 狙撃や暗殺事件は、被害者の名前が大々的に報じられても、実行者の名前はすぐに忘れられる。
 小田十壮は昭和11年2月21日、美濃部達吉を狙撃し、負傷させた。小田の回顧録が『私が抱いた浪人道 終戦前夜のうら話あれこれ』。奥付はなく、自序・後記が昭和57年9月になってゐる。手許のものには敬贈の赤いスタンプが捺してある。全112頁。
 東条内閣打倒運動、アメリカ本土上陸未遂事件の章にはそれぞれ頭山翁、三浦義一も出てくる。
 美濃部狙撃の前には下見に行った。

近くまで行って見て驚いた。同邸は袋小路の突き当りで、袋小路の入口には警察官の詰所が出来ていて出入りの者を誰何している。三、四台の電話が設置され七、八名の警官が詰めているようである。実に厳重を極めた警戒ぶりである。

 実行は難しさうだったが、たまたま八百屋の小僧から、美濃部が引っ越すといふのを耳にし、計画を練り直した。頭山翁にも会ったが計画は打ち明けなかった。

「お前はよい時機に生まれ合せたネ、こんな機会に生まれ合せた者は幸運児だ、仲々こんな機会に誰れでも遭遇できるものではない」
と言ってヂッと私の顔を眺められた。これでよい、この言葉が聞きたかった。翁は私の胸中を読んで居られる、今の一言で今日訪問した目的は達した、しかも私の決意は確固としたものとなった。

 美濃部に会ふ方法も思案した。偽の肩書きで、博士の教へ子として信憑性のあるもの、しかもボロが出ないやうに元○○がいい。結局、名刺に「福岡地方裁判所元予審判事、弁護士、小田俊雄」と刷り込んだ。本名の十壮では記憶に残りやすいのでありふれた名前にした。「私にしては上出来の智恵だと思った」。…名字も変へればいいのに。
 拳銃は土産物の籠の中に隠した。博士の引っ越し先は原っぱの中。

幸いしたことは当日朝早く、美濃部邸の周りの森に雉が飛んで来たと言って詰所にいた警官七、八人が皆雉退治に出かけていて留守中で、留守居の警官は一人しかいなかったと後で判明した。若し全員がいたなら、ヒョッとして誰れか一人位お土産物の籠に不審を抱く者が出たかも知れない。私に取っては雉様様であったと思う。

 引っ越す前の小石川だったら雉も出没しなかっただらうに。
 小田は女中に案内され、美濃部と面会。博士は教へ子だと信じてゐる。雑談。「時に先生、私も一寸した物を書いて来ていますが見て頂けませんか」。斬奸状を読む美濃部の顔色が見る見る変る。続く。