転向以降の赤松克麿

『東洋評論』は赤松克麿が創刊した雑誌で、昭和31年3月発行の第5号が赤松の追悼号。編集委員は猪俣敬太郎・市瀬正幸・津田官・毛呂清輝・入江一。諸家が思ひ出を寄せてゐる。
 津久井龍雄は「転向が機縁で結ぶ」。

赤松君の告別式場で、誰かが同君の生前の経歴を述べ、そのなかで転向以降の部分にふれることがほとんどなかったが、これははたして故人の意志にそうものであるかどうか。また、同君の経歴を述べるという上からいって、正しいことであるかどうか。赤松君の経歴を述べて、その転向以降に及ばないのは、あきらかに経歴の半ばを省いたもので、忠実、且つ完全な叙述というわけにわいくまい。

 この意に沿ってゐるのは入江一で、民間の赤松・大川・下中・亀井貫一郎・山元亀次郎と軍人の重藤千秋・橋本欣五郎・根本博・田中隆吉・長勇らとの接触を叙してゐる。軍人との接触については、津久井でさへ

軍人への急接近ぶりなどは、ちょっと度がすぎはしないかと思わせられることもあった。日華事変に宣伝戦のしごとをするとかで、大佐相当官に任命され、佐々木小次郎の物干竿のような大きな軍刀をぶら下げて、東京駅から出発するときなどいかにも得意そうにみえた。

 といふ熱の入れやうだった。
 戦後については、大山量士が事務局長を務めてゐた亜細亜友之会との機縁がある。この会は前田虎雄が設立した。はじめ赤松は前田を極右だと嫌ってゐたが、何度か会ふうちに意気投合し、「前田という男は偉い男だ」と誉めるやうになった。
 友の会の日本側には松本徳明、茂木久平、永井了吉、大森曹玄、進藤一馬、田尻隼人、和知鷹ニらもゐた。赤松は文筆面で指導し、パール博士のパンフレットを頒布したりした。
 赤松は与謝野鉄幹の甥。「メーデーの歌」「赤旗の歌」「日本労働総同盟の歌」を作詞してゐる。「建国祭の歌」は昭和8年のもので、毛呂によれば「労組、学生、愛国団体等の参加の下に大行進が挙行され大衆的に歌われた」。
 和歌も残してゐる。

武蔵野の草むらをはう虫のごとしづかに独り道を求めん

ひばり啼く畠にあれば選挙など遠き世界のざわめきのごと