殊に優れた変物‐土肥原賢二を助けた牧野天山

 『瓢々録』(昭和40年2月19日発行、私家版)は、今年で没後50年を迎へた尾崎士郎追想録。寄稿者は交友の広さを物語るやうに、137人に及ぶ。茂木久平、添田知道、大木惇夫、水野成夫、浅野晃、今里広記山崎一芳、田辺茂一豊田一夫石田博英中曽根康弘宇津井健中村汀女、紫垣隆の名もある。
 熊本の紫垣隆と尾崎とは相知る前、互ひに共通の知人を介して噂を聞いてゐた。

 尾崎は、最初「桂」で会ったとき、私のことは数年前から土肥原賢二(陸軍大将、戦犯で刑死された)からも、また私の友人牧野務からも機会あるごとに聞き、一度親しく会って見たいと思ってゐたと言ってゐたが、私もまた土肥原からも牧野からも尾崎の名は聞いて懐しく思っていたので、「桂」で会った最初から肝胆相許す友情関係を結ぶに至った。

牧野は天山と号し、熊本県では名立たる名家に生れ、男兄弟四人あり共に変った存在であった。天山はその末弟で殊に優れた変物で、上海では牧野機関をつくって土肥原を蔭から助けた。後に日東議会と称する団体を組織して、その首領として常に五千名位の輩下を持った一勢力であった。勿論今の右翼団体である。しかし天山の毛色の変った処は、ある時は先生であり、ある時は博徒の親分となり変幻極りなき存在であった点である。

 ○○機関といふの、幾つあったのであらうか。

 尾崎の死んだ日も雪だった。

 真鶴に雪がめずらしく降った。東京では積もったという。その翌朝のラジオで尾崎君の訃をきいた。
 雪で浄められたしずかな暁に魂は天に昇った。(中川一政)

 尾崎士郎君の訃が新聞に出た朝は、びっくりするほど大きな雪が降っていた。ぼたもち雪として最大らしい大粒な雪であったと思う。(井伏鱒ニ)