蜂須賀年子の家庭教師たち

 江戸時代に大名だった家が、明治になり華族となったのが大名華族。蜂須賀年子の『大名華族』(三笠書房、昭和32年10月刊)は自身の生ひ立ちを綴ったもの。
 母は徳川慶喜の娘、筆子。父の蜂須賀正韶は宮内省式部官。徳川家や皇室とのつながりもあって興味深い。
 「姫君の『性』教育」では、大名家に伝はってきた性教育の一端を描く。お付きの老女がまくら絵を見せて教授するのだが、姫は「そんなみだらなものはみとうない」と言って見ようとしない。そこでどうするのか…等等。
 年子には12人もの家庭教師がゐて、皆一流の人物だった。習字では、かなが千葉胤明。漢字は恩地轍。画家・装丁家恩地孝四郎の父で、大師流を修めた数少ない人。社会学は千代田通信社の井原伊三郎社長。

 こうした家庭教師は、まだあつた。今泉定介と、宮地厳夫のお二人であった。今泉先生はのりと、宮地先生は古事学とでもいうようなことを教えてくださる。
 このお二人はどちらも神主で、国文学者で、父のそのころとりつかれていた幽霊の研究をするお相手役であつた。

 父の蜂須賀正韶がとりつかれてゐたのは幽霊の研究なのだらうが、この書き方では幽霊にとりつかれてゐたのかと思ってしまった。
 年子は苦手な裁縫の時間を少なくしようと、今泉や宮地の「奇々怪々な勉強」を続けた。
 この本の特異なところは、奇妙不可思議な観音のことなど因縁話、心霊譚が端々に記されてゐること。
 妹の病気を治すために祈祷家の小林法運が呼ばれた。静岡の日蓮主義者に同姓同名がゐるが同一人物だらうか。小林は治病のほかに予言もでき、口も上手いので父親から信頼されたが、年子の予言は大外れ。「あらかじめ信仰心のある者だけにしか通用しない法力なんて、大したものじやないわ。八百長みたいなものよ」。
 年子の方が上手で、「私は心霊術を学び、鎮魂の法で照子姫の現身像を何度もありありとみたことがある」とさらりと書く。
 照子姫は慶喜への輿入れ直前に天然痘にかかり、醜い顔になり破談になってしまった。恨んだ照子姫は、代はりの嫁に世継ぎの男子を生ませず、根絶やしにしてやると遺書を書いて自害したといふ。実際、慶喜に嫁した美賀子には女しか産まれなかった。
 照子姫は一条家の養女。その祟りは昭憲皇太后にも及んだのだと噂された。