本荘幽蘭「生憎餅が品切れなのです」

 宮武外骨が発行してゐた『滑稽新聞』の中に、幽蘭女史が何回か登場する。
 なかでも明治42年3月15日発行の第12号のは「奇人本荘幽蘭女史」といふもので、一頁すべて使ってゐる。
 当時は九州毎日新聞に「赤裸々の懺悔」といふ小説を連載してゐたさうだが、これは中々残ってゐないだらう。
 交際相手を記録したものは諸書には錦蘭帳とあるが、ここでは「惚れ帳」。「其中には新聞記者もあれば下等俳優もあり会社員もあれば外国人もある」。外国人もゐたのか。
 外骨にも秋波を送ったが乗って来なかった。幽蘭曰く「思つた程の人物ぢゃないね!」
 暫くぶりに再会したのは、上野公園の幽蘭軒といふ店で餅を売ってゐたとき。傍らには男性が座ってゐる。

 「何処の御方かは存知ません、先刻此店へ餅を食べにお出になつたのですが、生憎餅が品切れなのです、品切になれば取りに行けばよろしいのですが、餅屋では前金でなければ渡しませず其前金の持合せもないので、此御方に願つて金を二円拝借して、只今餅を取りにやつて居る所なのです、其二円は売上げ代で御返済する筈ですから、謂はヾ此御方は皆さんが其餅を買つて下さつたりお茶代を下さる迄の間此店の「虜」になつて居らッしやるのですよ」

 なんだかおかしな話だ。品切れならそれまで売っただけの売上げがある筈だが、それはないやうだ。店仕舞ひをするでもなく、客から仕入れの資金を借りて、返済は儲けが出てからするんだといふ。そんな商売あるだらうか。男は「それを黙つて聞いて居て只ニコニコと笑って居る」
 それでも外骨は幽蘭にやさしい。
「堕落女なり莫連女なりとのみ目するのは、少し可哀想であらうと思ふ」「我輩は彼を『淫婦』とは認めない」。
 
 幽蘭の餅のことはやまと新聞の明治40年5月10日付にもある。ここでは幽蘭餅と名付けられてゐる。

幽蘭女史の道行
 狂と呼ばれ痴と云はれても顧みず或る時は救世軍となり或る時は又新聞記者となり女優となり口上云ひと化し時には油売りとなりし本庄久代事幽蘭女史は今回の博覧会には亡父の遺産二百円を懐中にして出京し谷中清水町に幽蘭軒なる喫茶店を出し

 云々とある。

 交際記録、ここでは「夜這帳」になってゐる。当時の相手は山口某で、「喫茶店の揚り高は右から左へ山口の懐中に押込む始末に遂には呼びものゝ幽蘭餅の仕込みさへ差支える始末」。
 父の遺産を遣ひ果たし、売上金も山口某に貢いでしまったのだ。外骨が会ったのはこの山口某であっても不思議はない。
 一ヵ月後には、小石川の扶桑教会権少教正の元に居るとも伝へられてゐる。
 かういふ女史も女史なら報じる方も報じる方で、『滑稽新聞』に戻ると、第14号には幽蘭の動向を伝へた後にかう記す。

斯かる些事中の些事を電報する奴の没常識、之を掲載する奴の不見識は云はずもがな、斯かる事でも掲げねば新聞種に欠乏する日本国は泰平無事なる哉噫