2013-01-01から1年間の記事一覧

星野輝興「さうあはてるな」

『教育報国』の昭和16年1月号(7巻1号)に、星野輝興の「明治天皇の御製を仰ぎて」が載ってゐる。 当時、毎月一回、軍神橘周太の部下だった内田清一軍曹の宅で、御製奉戴会といふ会があり、星野輝興宮内省掌典が明治天皇御製について講義を行ってゐたとい…

正木亮「そういうものかな」

『正木亮追想録』(昭和49年2月発行)は矯正協会内の刊行会から出版された。 死刑廃止論や志願囚として著名な弁護士で、第一部が傳記(目次では「傅記」と誤記)、第二部が追想記、第三部が年譜と主要著作目録になってゐる。 真面目な作りの本で人柄に沿った…

田中舎身の東亜女学校は生徒30人

『日本及日本人』の明治43年3月1日号を見てゐたら、田中舎身居士の紹介があった。「八百八街一町二人(四)」(黙洲)は各町の名物男を取り上げる連載で、下谷稲荷町の田中舎身と漢方医の中川昌義が載ってゐる。 田中舎身居士、頭山翁の同志の仏教者らしいが…

児玉誉士夫を乗せた馬

『野人の風景』(日本競馬協会㈱八千代産業発行、昭和59年2月)は監修が石渡庸左、編集発行落合義一、となってゐて、中を読むと総監修稲葉八州士とある。 手作り感溢れる本で、ちょっとわかりにくいが、どうやら日本競馬協会理事長、八千代産業会長の稲葉八…

泉鏡花訪問記を褒める野島辰次

『最後の記者馬鹿』(中央公論社、昭和36年6月)を書いたのは佐藤喜一郎。明治34年郡山市生まれで、慶応から時事新報に入社。同盟通信社を経て、産経では常務取締役を務めた。 正直に記者生活を叙してゐて、のちに読む分には面白い。入社一年目に泉鏡花を…

時対協の西武商品不買運動

『時対協十年史』は、大日本愛国団体連合時局対策協議会の、昭和35年から45年までの記録をまとめたもの。目次は「昭和○○年度・会議並運動概要」の文字のみがずっと続くもので、少々味気ない。しかし本文を読んでいくと戦後の世相がよく出てゐる。 マスコ…

堀川辰吉郎「百万円寄越せ」

『力之日本』昭和12年10月号は支那事変特集。 まづ広告に怪しいものが多い。エジソンが使ったといふ健脳機「メモリ・バンド」は脳を二倍三倍に使へる。田螺の黒焼きも猿の頭の黒焼きも狐の舌もある。それぞれ淋病、脳病、痛風患者に喜ばれてゐるといふ。…

徳富蘇峰「どうかきょう死にたい」

『ニッポン女傑伝』(秋吉茂著、謙光社、昭和44年)は、有名無名取り交ぜた51人の女傑のインタビュー集。数が多いので人物スケッチで終わってしまってゐるのが惜しい。 読んでみると、もうこの頃の話も歴史の範疇になりつつある。 痛快なのは谷田春江。名…

被写体になった本荘幽蘭

本荘幽蘭の写真といへば、顔だけ切り取ったコラージュのやうなものしか伝はってゐないと思はれてきたが、実は幽蘭の全身を写した写真がある。それは村居銕次郎の前掲書のなかに掲載されてゐる。 なにしろ村居がゐた毎日電報こそ、幽蘭が在籍してゐた新聞社だ…

横川省三記念公園設立発起人の面々

村居銕次郎(銕城)が設立に参画した新聞は民声新報といった。年譜では社長としての俸給五十円とある。自由党の星亨のための機関紙だったが、星が暗殺されてしまひ困難が多く、その後毎日電報、民声新聞、萬歳新聞と紙名が変遷した。編集長ははじめ国木田独歩…

滅法素敵!村居銕次郎の『銕城記壽録』

村居銕次郎の自叙伝『銕城記壽録』が滅法素敵なのでつい読み耽ってしまふ。 著者は孝明天皇の崩御する三日前に生まれたので、明治と歩みを共にした。世間に出回ってゐる伝記や自伝は嘘ばかり、俗臭紛々、見るに堪えないと感じてゐたさうで、この本は嘘偽りな…

頭山翁「不朽の文章は不朽の功業なり」

河出書房の『宗教と学校』を見てゐたら、皇學館が興学館になってゐた。皇學館は学校のうちに入らない、若しくは神道は宗教ではないといふ底意がある、はたまた皇の字が目障り――といふわけでもなからうが、題名と内容が題名と内容だけに校正はどうなってゐる…

李起東に煮え湯を飲まされた山田忍三蛇の目ミシン社長

『飛瀑』は布施田正の自叙伝。非売品で昭和47年7月発行。見返しには「飛瀑」の肩に「私録」とある。写真は父の生地の東尋坊で、著者が左手をポケットに入れて立ってゐる。 どういふ人かといふに、日本合同通信社から日刊工業新聞社、産経新聞社、世論調査…

原敏之の電界治療を受けた頭山翁

『生誕100周年記念 不老不病に挑んだ男 原敏之物語』(平成14年、株式会社エイチアンドアイ発行)は電界療法発明者の原敏之医学博士の追悼資料集。 原は電気で病気を改善させるヘルストロンの発明者だ。 大判で写真も大きく載ってゐる。その中に頭山翁と…

7000冊の本を救った男たち

熊本の農業修養団体、合志義塾農道部発行の『耕作の歌』を読んでゐたら、尊皇義勇軍を巡る座談会が載ってゐた。終戦の詔勅を偽勅だとして藤崎宮に集合し、軍に戦争継続を訴えて決起した。参加者は合気道の中島淑人万生館館長、北原一穂、工藤誠一県会議員、…

岡本普意識「天照大神も人間である」

『先駆者普意識 岡本利吉の生涯』(角石寿一著、昭和52年7月、民生館)は岡本普意識こと岡本利吉の伝記。同じ人だけれどもデータが統合されてゐない図書館もある。 昭和の初めまではアナーキストと近く、権藤成卿や新居格、下中弥三郎、平沢計七らと行動し…

武者小路実篤「留ちやんはいつまでも僕には留ちやんである」

秋に暗殺の多い気がするのはどうしたものか。 武者小路実篤の「『新しき村』にゐた『留ちやん』」(『婦人公論』昭和6年1月号)は、「新しき村」にゐた兄弟の思ひ出。兄の巌は電気の知識を持ってゐたので、新しき村を電化するために毎日武者小路と話し合った…

ハイヒールで通学した野本義松

『ニコニコ生活』は昭和27年4月、人事新聞社の編。題名にニコニコとあるから不動貯金銀行の関係かと思ったら、直接の関係はないやう。長岡出身で、選挙に立候補した野本義松の講演録。時々ニコニコといふ言葉が入るだけで、特にニコニコ論を展開してゐる…

約束破ったタゴールを震へ上がらせた本間憲一郎

文治堂書店から出た、宗教哲学者の斎木仙酔の伝記には、タゴールやアブドル・バハ、松村介石も出てくるさうなが、まだ見る機会を得ない。 タゴールといへば本間憲一郎である。『本間憲一郎先生の面影』は昭和39年10月と「あとがき」にある小ぶりの本で、…

南九州の兵隊が強いわけ

小畑惟精は明治16年熊本県生まれ。浜田病院院長の産婦人科医で、昭和30年から2年間、日本医師会会長も務めた。 『喜寿 一生の回顧』は奥付けがないけれど自序は昭和34年4月。全520頁のなかなか浩瀚な自伝になってゐる。目次だけで三段8頁に及ん…

白々教の出現も日本敗北も予言した鄭鑑録

『人権十年』は津田騰三方にあった人権十年刊行会発行。発売元は新小説社、昭和33年11月発行。函は権の字が木+又の略字になってゐる。 64人の弁護士が文章を寄せてゐる。田多井四郎治「法と道徳との淵源について」は題名は普通だが、中身は五十音の音義論で…

天野辰夫のお説教と千早特高課長の昼食

天野辰夫が愛国者・民族派の弁護士だったといふのは何となく知られてゐるけれども、その為人の一端がわかる文章があった。 『民族と政治』の昭和49年4月号に、毛呂清輝が「天野辰夫氏を偲ぶ」を寄せてゐる。初印象では天野が厳父、前田虎雄が慈母、本間憲一…

木村松治郎の校正の和歌

『明治大正昭和国民同朋和歌集』(三井甲之選、しきしまのみち会大阪支部発行、昭和53年2月1日発行)は三井の没後、木村松治郎がまとめたもの。 中に一枚の正誤表のやうなものが入ってゐた。 「校正をしつつ」と題して、6首の和歌が添へられてゐる。 「出版を…

藤沼庄平警視総監を不敬罪で告訴した角田清彦

この前出た平野小剣の伝記には、しっかりと国家主義時代のことも描写されてゐた。其の中にも名前のあった角田清彦。何をした人なのか摑み所がないが、熊沢天皇関連の不敬事件でも重要な立ち回りをしてゐた。 吉田長蔵「十六菊花紋章をめぐる不敬事件の真相」…

自力で失明の危機を克服した大川周明

許斐氏利の伝記には、長勇の七回忌に大川周明がやってきたやうに書いてあるが、それは不可能だった。大川は失明の危機に瀕してゐたから。緑内障が悪化して、不治の病だったので、病院通ひもやめて、自宅で病魔と闘った。十三回忌には出席した。 『不二』の昭…

高場乱「よし今日は乳癌について学ぼう」

高場乱が漫画になってゐるのでみてみた。『まんがグリム童話』(9月号、ぶんか社)の特集は「歴史を血に染めた魔性の女傑たち」。表紙には載ってゐないが、中身を見たらちゃんとあった。「高場乱〜革命を支えた女傑〜」(川崎三枝子)。1頁目の惹句は高場の顔に…

ムッソリーニと三浦周行の通訳をしたカルデリーニ女史

『努力』(『日本魂』の一時改題)の大正12年8月号(8巻8号)に、史学家の三浦周行が一文を寄せてゐる。題して「伊太利国粋党の本領‐首領ムツソリーニ氏との会見記」。 三浦は前年10月、ベスビオ山の麓で「丈低き一人の同胞」即ち下位春吉の出迎へを受け…

「ブースを懲らすべし」「寧ろ殺して了ふべし」

明治40年5月8日、神田錦町の錦輝館でブース反対演説会が開催された。10日付の読売新聞によれば、立錐の余地もない盛況であった。滑稽な会合でもあったといふ。時刻は「一昨夜の午後一時」とあって、夜か昼か判然としない。 宮井鐘次郎(雑誌「神風」とかの主…

三上卓「奥山忠男君を知ってゐますか?」

『岩淵辰雄追想録』(昭和56年10月発行、非売品)を見てゐたら、五・一五事件の三上卓の名前があったので読み進む。廣西元信が「生涯忘れ得ぬ一瞬」と題して書いたものの中から。 昭和20年6月初旬、廣西が岩淵宅を訪問すると先客がゐたので、隣の応接室で待っ…

昭和天皇に称讃された下位春吉

『日本魂』の大正10年8月号を読んでゐたら、「東宮殿下御消息」が載ってゐた。当時皇太子だった昭和天皇が御渡欧した様子が報道されてゐる。それぞれ数行の「羅馬市民の大歓迎」(七月十六日電通社 羅馬発)と「御帰航の途に就かせらる」(七月十八日朝日新聞 …