毛沢東を讃嘆した北原龍雄

 売文社、黒龍会、やまと新聞と左右を経巡った北原龍雄。戦中の動向を綴ったのが「八路軍情報‐ベトコンゲリラからの回想‐」。『人物往来』の昭和40年10月号に発表し、表紙にも掲げられてゐる。
 北原は昭和13年から5年間、参謀本部から委嘱を受け、八路軍の研究に従事した。所属した北支方面軍司令部第二課は華北の謀略・情報担当の機関で、課長は本郷忠夫中佐。その父は本郷房太郎大将で、日露戦争で活躍した。

私がとくに中共の研究を委嘱された理由は、私がかつて、明治から大正にかけての社会主義運動にちょいと関係した経験を持っていたことによるので、マルクスを読み、大衆運動に参加した経験のない者には、中国共産党の戦術戦略は理解できないということを軍の首脳部も知りはじめていた。

 売文社にゐたことを「ちょいと関係」と表現するのが相応しいだらうかと思ふが、確かに北原にとって恰好の任務であった。参謀本部はさういふ主義者も採用した。
 この報告では中共のゲリラ戦術や規律の厳正さを賞讃。八路軍の行軍心得で「農家は貧しくて忙しい。少しでも迷惑をかけてはいけない」「食糧を携帯する時でも、家人より豊かな食事をしてはいけない」などがあり、それらが遵守されたといふ。
 ただ周囲は国民党ばかり評価し、北原の言葉はあまり聞き入れられなかったといふ。少数の理解者として、中野正剛、秋田清、十河信二の名を挙げてゐる。
 さうして

私らはまず中国共産党の思想を凝縮し、生きた象徴としてそれを体現する一人の人物に、限りない讃嘆と待望とを抱く。毛沢東がその人である。

 と賞讃する。
 上海で終戦を迎へた。略歴には、戦後は砂利採取業、とある。