2014-03-01から1ヶ月間の記事一覧

有松英義がやまと新聞に紹介した徳永保之助

『新時代』大正7年6月号に、杉中種吉が「やまと新聞論」を書いてゐる。やまと新聞は花柳界の記事を載せる小新聞だった。しかし松下軍治が社長になってからは、国家主義の傾向を強くした。軍治が亡くなってからは息子で東京帝大出の松下勇三郎が社長を務め…

共産党員に古本屋を奨めた脊山藤吉

『自伝 不折の道』(昭和49年10月)は脊山藤吉が自分史を綴った私家本。200頁に満たない小ぶりのもの。しかしお仕事が左翼、右翼などの思想を取り締まる兵庫県警特高課勤務の警察官。のちに内務省警保局保安課。思想捜査の実際がわかる。 その頃左翼運…

向陽の二字は不敬に当たるか

玄洋社は改称前に向陽社といった。しかしこの向陽といふ文字が、太陽を象徴する天照大神の子孫である、天皇に刃向かふと読めるなどといった意味の意見が出て、玄洋社に改称されたといふ。 しかしこれには予々不審で、京都には向日市がある。宮崎は日向国とい…

賀川豊彦の名前の由来

『白天録』(昭和44年11月発行)は加藤普佐次郎の遺稿集・追悼録。 加藤は九州帝大医学部助手、松沢病院勤務・居住、日本指圧学院副校長、明治大学教授などを歴任した。 今般世界内閣改造ニ付、軍用金トシテ百億万円蘆原将軍ニ納ムル事 大正拾壱年四月拾日…