村居銕次郎の自叙伝『銕城記壽録』が滅法素敵なのでつい読み耽ってしまふ。
著者は孝明天皇の崩御する三日前に生まれたので、明治と歩みを共にした。世間に出回ってゐる伝記や自伝は嘘ばかり、俗臭紛々、見るに堪えないと感じてゐたさうで、この本は嘘偽りなく赤裸々に書いてあってよい。写真も沢山。
また何かと記録魔で、早いうちから自伝を書かうと資料を収集、時宜を逸して延び延びになって、ようやく昭和17年5月に発行された。結果的に情報量が多くなった。明治40年以来精査してきて、本書刊行時には協力者の四分の一が亡くなってしまったといふから手間隙がかかってゐる。協力者の中には大江卓、鳥居龍蔵、中村不折、横山健堂、満川亀太郎の名もある。
経歴もどこそこに何年勤め、俸給はいくら、住所もどこに住んでゐたのかを数ヶ月単位で記し、当時の関係者は誰々、著書の送付先はどこの図書館、誰々なぞ逐一記録されてゐて、意外な人の名もあるので眺めるだけでも楽しい。
子供の頃目を病んだので、母に命じられ小便を貝殻に受けて、それで目を洗った。それでも治らないので、駄賃をもらってお寺に日参したが、すぐにやめて食ひ物を買った。川路利良がゐた警視庁では給仕をした。勤務中でも五目並べが大流行して、パンを賭けてゐた。負けたときの12、3銭が惜しくて机上の小銭を失敬したら発覚してクビになった。小学校でも給仕をして、墨のかけらを集めて金に換へてゐたら発覚してクビになった。
地理が得意だったので絵も巧からうと思はれて、彰技堂画塾に通はされた。先輩・同僚に高橋由一、浅井忠、鳩山春子、荒木寛畝、嘉納治五郎、金子堅太郎、小川芋銭もゐた。写真もあるので、分かる人は分かるのであらう。
しかし村居は親の期待に応へられず一向に上達せず、退学のやむなきに至った。
そんななか村居が熱中したことは、外国の天使の絵から着想を得て、飛行機を夢想することだった。
僕はともすると飛行機の夢を見た。一種変てこな機械を僕が作つてゐる。大川の縁や公園などで、僕は其の機に乗つて空を飛ぶ。下からは観客がわつわつと喝采を浴せる。とても愉快である。僕は此の夢の中の飛行機に、飛揚機といふ名まで付けてゐた。
明治の初めにさういふ夢を見てゐたなんて滅法素敵だ。
写真で見ると、村居は大兵肥満で四角い顔に眼鏡をかけてゐる。集合写真ではたいてい、一番大きななりの人物が村居だった。
その後、政治や新聞、各種団体に関はっていって興味は尽きない。
大正2年に創立した帝国公道会は、国内の部落差別をなくし、融和させようといふ団体。会長に板垣退助、幹事に加治時次郎の名がある。同志者として田中舎身、佐々木照山もゐる。大正8年の融和大会には佐々木蒙古王と山室軍平、井上角五郎らが祝詞を寄せてゐる。照山はどういふ繋がりであらうか。
続く。