泉鏡花訪問記を褒める野島辰次

 『最後の記者馬鹿』(中央公論社、昭和36年6月)を書いたのは佐藤喜一郎。明治34年郡山市生まれで、慶応から時事新報に入社。同盟通信社を経て、産経では常務取締役を務めた。
 正直に記者生活を叙してゐて、のちに読む分には面白い。入社一年目に泉鏡花を訪問したところ、春陽堂の全集を校正中で、校正係と奮闘してゐた。一部の人には有名な話だが、必ず豆腐を豆府と書いた。「こんな字を書かれたんじゃ、もう食う気にならねえ」。他にもある。紋つきは紋着でなければならないが、校正は紋附になおしてくる。「紋附じゃあ、横にだだっぴろくて、立ち姿のスラッとした感じが出やしない」。
 鏡花は松並木と書くが、当時の校正は松竝木にした。

 こう行儀よくきれいにならんだ景色なんだ。それを松竝木とやられちゃア松の木が無細工なデコボコですよ。両方が直しっこの競争じゃ、やりきれやしねえ」
(略)
 その鏡花訪問記が写真とともに夕刊に載ると、社会面の整理をしながら家で小説をかいていた野島辰次という次長クラスの人が、
「きょうのはいいね。言葉がばかていねいになったり、べらんめえになったりするところが、鏡花そっくりだよ」
と、ほめてくれた。

 野島は日本ファシズム連盟や創価学会の幹部になる人だが、時事の整理記者だったのか。鏡花の読者でもあったやうだ。
 芥川の遺書紛失、大島での伝書鳩事件も載ってゐるが、記者らしいのは二・二六事件の飛報を受けたとき。 

 大臣や大将が叛乱軍に殺されたと聞くと、思わず笑いがこみあげて来て、なかなか止まらなかった。まわりの記者たちは、びっくりして私の顔を見た。偉い人たちの不幸を大笑いするとは、弁解の余地のない不逞な話だが、どうして私が笑い出したのか、自分でもよくわからない。気が変になったわけではないから、記者馬鹿の事あれ主義の極致に際会して、よくぞわれ記者にとの満足感の発露であったというほかはない。まことに没義道な心理で申しわけないが、ほんとうだからかくすわけにいかない。