被写体になった本荘幽蘭

 本荘幽蘭の写真といへば、顔だけ切り取ったコラージュのやうなものしか伝はってゐないと思はれてきたが、実は幽蘭の全身を写した写真がある。それは村居銕次郎の前掲書のなかに掲載されてゐる。
 なにしろ村居がゐた毎日電報こそ、幽蘭が在籍してゐた新聞社だった。民声新報から改題し、八官町に移転した明治三十六年元旦当時の社員の名前が列記されてゐて、其の中に幽蘭の名がある。ちなみに他には柴野鈴子、といふ女性の名前もある。尤もこれだけでは記者なのか事務員なのかはわからないが。そのほか、唯一の子爵として櫛笥隆督といふのも居る。鳥越敬太もゐる。鳥越は南洋に雄飛した先覚者で、シンガポールスマトラに渡り在南33年を過ごした。
 幽蘭がのちに南洋に渡ったといふのも、自身の突飛な御転婆ぶりを示すかのやうだけれども、幽蘭の周囲にはかういふ南洋熱といふものがあった。銕次郎自身も何度も渡南した。満川亀太郎との繋がりも南洋や拓殖研究のうちにあった。銕次郎は拓殖大学の卒業式で、海外雄飛を勧める祝辞を述べてゐる。
 
 幽蘭の写真だけれども、胸にフリルのついた鹿鳴館風の洋装で、つば広で花の付いた帽子を被ってゐる。顔は隠れて明確ではないけれども、眉は濃く髪は短かさうだ。
 疲れたときに、左右の指を組んで伸びをすることがあるけれど、あのやうに手を組んで体の前に置いてゐる。ポーズだけならアイドルのやうだ。ただ、写真説明は「奇矯で名をなした本荘幽蘭女史」。撮影年代がはっきりしないが、二十代から三十代に見える。体はすらりとしてゐるので、これだけでも幽蘭に対する印象が変る。

 銕次郎に帰ると、その境涯は決して順風満帆ではなかった。心に残った文章を抜き書きして〆。

十年の内、ニ三年は順調で、七、八年は不如意に終るものだ。この記録六百項目も大部分失敗で二割位がマー成功の部類だ。だから良い時には進み、悪いときにはドンナ事にも手を出さぬ方が良いと云ふ結論を老生は持つてゐる。