南九州の兵隊が強いわけ

 小畑惟精は明治16年熊本県生まれ。浜田病院院長の産婦人科医で、昭和30年から2年間、日本医師会会長も務めた。
 『喜寿 一生の回顧』は奥付けがないけれど自序は昭和34年4月。全520頁のなかなか浩瀚な自伝になってゐる。目次だけで三段8頁に及んでゐる。熊本中学、五高、有斐学舎など学生時代のことも詳しい。医者になってからは北白川宮妃殿下の下にも往診に行ってゐて、貴顕や将軍も色々出てくる。「新聞社併合」は戦時下の話。
 九州日日新聞と九州新聞が合併して熊本日日新聞が誕生する。その披露宴が昭和17年6月1日、帝国ホテルで行われた。そのなかで名前は書いてゐないが、新聞協会長が来賓挨拶で、南九州が日本中で一番新聞の購読率が低いといふ。その趣旨は、だからこれから伸びしろがあるといふことだった。それを聞いてゐたのが小畑と、隣のニ子石官太郎陸軍中将だった。
 

ニ子石中将は、南九州は一番新聞を読まぬだろうか。それはけしからぬと憤慨されるから、私は小声で、ニ子石さん、南九州の兵隊は日本国中で一番強いと聞いて居るが、ほんとうですかと問えば、それはほんとうに一番強かたいと言われる。それではニ子石さん、新聞を読まぬから強いのだろうか、新聞を読んだら、もっと強くなりますかと言ったら、俄かに大きな声で、成る程、小畑さん、あなたは智慧者ばい、新聞読まぬのと兵隊が強いのは関係があるばい、と興奮した様に言われた

 南九州の兵隊が強いのは、新聞なぞ読まず、世事に関与せず精励するからだといふのであらう。本当がどうかわからないが、ニ子石中将には大きな発見であったやうだ。
 このフタゴイシ中将、大きな苗字辞典を見ても載ってゐない変った苗字だ。逝去したのは戦場ではなく東京會舘(当時は大東亜会館といった)だった。
 この会話の三ヵ月後、金属製の手すりが供出でなくなってゐたのに気づかず、落下して亡くなった。かういふのも戦争の犠牲者なのであらうか。