三上卓「奥山忠男君を知ってゐますか?」

 『岩淵辰雄追想録』(昭和56年10月発行、非売品)を見てゐたら、五・一五事件の三上卓の名前があったので読み進む。廣西元信が「生涯忘れ得ぬ一瞬」と題して書いたものの中から。 
 昭和20年6月初旬、廣西が岩淵宅を訪問すると先客がゐたので、隣の応接室で待ってゐた。会話の内容はわからないが語気強く、客が岩淵を責めてゐるやうな口吻だった。
  話が終はったと言はれて入室してみると、件の客は三上卓だった。
 岩淵は開戦当初から悲観的で、朝鮮も台湾も失ふことを予期してゐた。後にわかったことだが、三上は中国と連携して本土決戦をする考へだった。この二人ではあまり嚙み合はなかったのではないか。

 〝広西君といってね、空手の達人で、人殺し技術の先生なんだ〟
 岩淵さんは、妙な表現の仕方で私を紹介した。
 〝奥山忠雄君を知っていますか?〟
 これが三上氏の最初の言葉だった。
 〝奥山君は早稲田の空手部で、私の五年後輩です。彼には、ときどき、キツネが憑くので、素晴らしい技術屋です。三上さんの家にも、しばらく居候をしていたこともあるそうですね〟

 正しくは奥山忠男。当時、陸軍中野学校でも教授してゐたといふ。

 この一月前、廣西が奥山と会った様子が面妖だ。
 奥山は会話中、長煙管に火を点けないまま瞑目した。煙管を動かして蝿を落とす。さうして十数匹になった蝿と戯れてゐる。
 この様子を見た廣西の反応も尋常でない。「何か異様な殺気がただよう」「彼にはキツネが憑いてきた。私を殺しに来たのか」。
 奥山の呼吸に合はせると、やっと双方が落ち着いた。奥山の用件は、江上松濤館長に教へられ、廣西に闇米を貰ひに来たのだった。
 戦後、奥山は大本の元に身を寄せた。 

 出口教祖が、京都市内から霊波を発光する媒体がいる、ということで訊ねまわって、やっと、つかまえたのが奥山であった。大本教の教義など信奉しなくともよい。亀岡に来て、遊んでいてくれ、との要望でつれて行った。

 廣西は終戦後15年ぐらゐしてからも何度か三上と会ふやうになった。其の度に奥山のことを話した。