正木亮「そういうものかな」

 『正木亮追想録』(昭和49年2月発行)は矯正協会内の刊行会から出版された。
 死刑廃止論や志願囚として著名な弁護士で、第一部が傳記(目次では「傅記」と誤記)、第二部が追想記、第三部が年譜と主要著作目録になってゐる。
 真面目な作りの本で人柄に沿った思ひがする。やはり追想記が面白く、63人が思ひ出を寄せてゐる。有名人では田中角栄平林たい子、坂西志保、小佐野賢治の名もある。
 田辺信好といふ人は、今子供の間でレインボウマンが人気で、主人公でシネシネ団と戦ふヤマトタケシが自分。タケシに夢のなかで策を授ける仙人が正木だと例へてゐる。それほど慕はれてゐた。
 青地晨は『刑政』や『人』新聞を編集してゐたさうで、その思ひ出。
 元司法記者会員の遠山寛といふ人が「正木さんのハンコ」を寄せてゐる。正木と佐郷屋留雄の縁を記したもの。正木が志願囚として服役してゐたとき、同囚が愛国社社主の岩田愛之助だった。
 社員の佐郷屋が撃った浜口雄幸首相は、10ヶ月も後に亡くなった。
 狙撃した時点では殺人未遂で、これを殺人罪に切り替へてよいものか、論争があった。
 結局殺人罪の死刑が確定した。 
 ところがその同じ年に香淳皇后がご懐妊をした。出産予定は12月下旬といふ。内親王が4人続いたので、皇太子殿下の誕生が待望された。

刑の執行にたいする最後の関門はこの行刑局、というよりも正木さんのハンコ一つにあっただけに、私と正木さんとの話はいつの間にか死刑囚のことにふれていた。話している間に私の眼にとまったのは、佐郷屋の死刑執行の決裁書類である。もち論、この種の書類は極秘のもので、正木さんがハンコを捺せば、正木さんから塩野局長に廻り、最後に小山法相の手許に届けられるのであるから、死刑執行までに間一髪のきわどいものであった。

 感情を抑へ切れなくなった遠山は、すべて「仮定の話」の妙な問答を始めた。

私「皇太子誕生となれば、恩赦が発布されることもあるでしょう。恩赦となれば死刑と確定したものでも、無期に減刑されることも…」
正木さん「そうかも知れないが、恩赦は大権事項で、天皇ご一人の意思をそんたくすることになるので、想像することはやめよう。それにご慶事が男か、女か、これだけはわからないものだから」
私「あるいは皇太子がお生まれになるかもしれない。もしもですよ、あなたの手許に誰かの死刑囚の決裁書類が廻っていたら、ご慶事の結果をみるまでハンコ捺しを待ったらどうですか」
正木さん「そういうものかな」

 当時は女の内親王だったらサイレンが一回、男の皇太子だったら二回鳴る手筈になってゐた。
 十二月二十三日、サイレンは二回鳴った。
 果たして翌年二月十一日に佐郷屋は恩赦で無期懲役になった。更に憲法発布五十周年、更に皇紀二千六百年と三回続けて恩赦になり、昭和15年11月に出獄した。浜口首相狙撃から丁度10年経ってゐた。
 
 もし生まれたのが女だったら、当然恩赦は無かっただらう。

 八十年前、佐郷屋はサイレンの音を聞いただらうか。