『生誕100周年記念 不老不病に挑んだ男 原敏之物語』(平成14年、株式会社エイチアンドアイ発行)は電界療法発明者の原敏之医学博士の追悼資料集。
原は電気で病気を改善させるヘルストロンの発明者だ。
大判で写真も大きく載ってゐる。その中に頭山翁と共に写真に収まってゐる集合写真もあった。
原ははじめ、国産管球の開発をしてゐたが、その製法がアメリカの会社の特許を侵害してゐるらしいことがわかった。もともと九州日報主筆の篠崎昇之助と親しかった。最初にどういうきっかけがあったのかは詳しく触れられてゐないが、ともかくそこから社長の大原義剛、頭山、杉山、末永節らと交友を広げていった。特許問題で大原に相談したところ、ある日原は杉山翁に呼ばれた。
敏之が参上すると、杉山翁は笑いながら「特許のことは知っとったのかね」と聞いてきた。敏之は「自分が研究してきたもので、よその特許をマネしたのではありません」と答えると、翁はほんとに知らなかったのかと念を押す。敏之も断固として、外国の模倣じゃないと主張した。
敏之が管球の製造をすっぱりやめると言ふと、「あとのことは心配するな。何も面倒なことはなか」と答えた通り、賠償も請求されず円満処理された。
杉山翁の交渉手腕が発揮されたやうで、書類には頭山翁、財部・加藤両海軍大将、後藤新平らも名を連ねた。
その後の福岡総合病院の設立にも大原らの助力があった。院内ではヘルストロンの基になる通電治療を開始。しかし「手品みたいなような治療をやって患者集めをしている」と中傷された。
100万ボルトを通電させる人体公開実験では、母が実験台に上り無事成功。それから電界治療に沢山の人々が訪れる。篠崎の妹は肺結核が全快。大原義剛も血圧が200から160に下がった。
大原が驚いて、帰福してゐた頭山翁にも勧めた。
頭山翁もものは試しと通電台に上がった。当時、電界治療器は台と肌を直に接した方が効果があるとされていた。そこで、頭山翁は着物の裾をからげてふんどし丸出しで座ったはよいが、その間から〝いちもつ〟がはみ出して見える。頭山は知ってか知らずか悠然としている。これには一同、目のやり場がなくて困ったという。
大きく報道されたのは母を実験台にしたことだけれども、頭山翁のことも宣伝に一役買ったのではなからうか。
福岡の病院で玄洋社関係といふと、夢野久作と繋がってゐてもおかしくはなささうだ。