武者小路実篤「留ちやんはいつまでも僕には留ちやんである」

 秋に暗殺の多い気がするのはどうしたものか。
 武者小路実篤の「『新しき村』にゐた『留ちやん』」(『婦人公論』昭和6年1月号)は、「新しき村」にゐた兄弟の思ひ出。兄の巌は電気の知識を持ってゐたので、新しき村を電化するために毎日武者小路と話し合った。無口だけれどもお金をかけずに済ます方法を考へ合った。
 弟が父親に折檻されて、村に来たいといふので連れてこられた。元気さうな、丈夫さうな子供だった。

評判はあまりよくなかつたかも知れないが、何と云つても少年だつたので、皆から留ちやん、留ちやんと云はれてゐた。留ちやんが馬にのつたり、駈け歩いたりしてゐる姿は思ひ出せる。新聞の写真の主とは随分ちがう。

ただ留雄は8年前に15歳。武者小路の方が40歳近かった。年が離れてゐたこともあり印象は薄く、「少年だつたと云ふ以外に別にはつきりした印象もなかつた」。村では誰でも仕事を持ってゐて、留雄の仕事は毎日の風呂焚きと、郵便物を川向かふに持って行き、また受け取ることだった。村の生活を喜んでゐるやうに見えた。村には一年か、もっと居たやうな気もする。

兇漢にも少年時代はあり、滑稽時代はあつた。憎むべき人とは僕は思はない。しかし最近の留ちやんを知つたら、留ちやんなぞと云ふ気もしなくなり、嫌悪を感じるかと思ふが、しかし最近のことを知らないから、留ちやんはいつまでも僕には留ちやんである。憎む気にはなれない。

村へ来ていく分よくなつて、その人の親からよろこばれた事もあるが、それは偶然の結果にすぎない。僕達はいゝ人が来てくれて僕達を感化してくれることを望んでゐるのだ。

 僕も知ってゐる人だけに、なんだか少し自分にも責任があるやうな気がしたが、仕方がない。僕はあの時、あのやうにするのが自分としては当然だと思ってゐるから。そして世間で時時、新しき村を感化院風のものに思つてゐる人があるのを、自分は不快に思つてゐる。

 佐郷屋留雄に撃たれた浜口雄幸首相は事件の翌年亡くなった。