星野輝興「さうあはてるな」

 『教育報国』の昭和16年1月号(7巻1号)に、星野輝興の「明治天皇の御製を仰ぎて」が載ってゐる。
 当時、毎月一回、軍神橘周太の部下だった内田清一軍曹の宅で、御製奉戴会といふ会があり、星野輝興宮内省掌典明治天皇御製について講義を行ってゐたといふ。誌上にその一部が採録された。
 星野は斯界では、葦津珍彦が糾弾した相手とされてゐる。この記事では講演録であることもあり、平易な語り口で、しかも奥深いことを述べてゐる。
 星野は60歳にならなければ本当のものは書けぬといふ。昭和16年に60歳になるので、「一月一日を迎へてから、筆の限り、舌の限り、力の限り、残すべきものを書き、精一杯働くつもりである」。これからは本腰を入れて書くといふ。

 明治天皇御製に「思ふこと貫かむ世をまつほどの月日は長きものにぞありける」がある。

今の人は、何か事をすると、もうその翌日は、何程かの効果の挙ることを求めてゐる。皇国の使命を忘れてゐるから直ぐに其の事に対する代償を求めるのだ。処がこの皇国の使命は、五十年や、六十年で遂行できるものではない。日本の神様も、天皇陛下も、何を思召して御出になるか、其の思召して御出でになることが、夫れが皇国の使命である。一年や、二年の計画ではならぬ。少くとも、百年後のことを一貫する大計画を樹立して、懸命に取り掛る義務がある。今吾々はするごと、為すことに就て、二千七百年への見通しをつけて巨大な歩みを運ぶにあることは、極めて明瞭である。さうあはてるな……月日は長きものにぞありける……

 大戦末期、敗色濃厚となると、思想戦や長期戦の声が大きくなった。さうして負けるといはずに、負けたときのことを準備した。(兵力で負けても)思想戦を続け、(短期的に負けても)長期戦で最終的に勝ちを収めようといふ意味があった。
 一方で勿論純粋に思想戦と長期戦を唱へる人もゐた。
 星野は昭和15年末の時点で長期戦の必要を説いてゐる。これは軍の内情に何か訝しい点を感じたのだらうか。例へば「単に八紘一宇だけでは侵略主義になる惧がある」とも話してゐる。言葉の端々にそれを感じる。

 明治天皇御製に「散りやすきうらみはいはじいく春もかはらでにほへ山ざくら花」があるといふ。

二千六百年の尊い歴史の中にも、時代によりて、暗黒時代もあつた。散りやすき桜ではある。然し散るもうれしい眺めである。心の底に永遠のもの、夫れ自身どつしりしたものがあれば、散るも面白い。問題は、かはらで、にほへ、山桜花である。

 暗黒時代とは武家の時代のことであらう。「散りやすき桜」は平泉史学でいふところの皇国護持史観がよく当てはまる。国体は決して金甌無欠でなく、いくつもの危機と悲劇を経て、かつがつ伝へられたものだといふ考へだった。
 「散るもうれしい」といふ表現はどうかといふ思ひもするが、皇統と皇位を解くのに格好の御製だったのであらう。