李起東に煮え湯を飲まされた山田忍三蛇の目ミシン社長

『飛瀑』は布施田正の自叙伝。非売品で昭和47年7月発行。見返しには「飛瀑」の肩に「私録」とある。写真は父の生地の東尋坊で、著者が左手をポケットに入れて立ってゐる。
 どういふ人かといふに、日本合同通信社から日刊工業新聞社産経新聞社、世論調査研究所、と渡り歩き、有名無名の人物との出会ひがつづられてゐる。
 話があちこちに飛んだり精粗がばらばらだったりするけれども、登場する人が癖のあるひとばかりで面白い。
 多田恵一は白瀬矗中尉と南極探検に行ったのち、実業之世界社で勤務した。著者は子供のころ、日の丸を振って一行を南極に送ったので、好意を持ってゐた。700円は手形で貸したままになった。交通事故で足を不自由にして出歩かなくなった。

気魄は仲々のもので、増上寺の所有地を、西武鉄道が購入して、ゴルフ場設置の時、境界線か何かの事で、近所住民を代表して、故堤康次郎社長に交渉、遂に譲歩させたという、反骨精神は未だ消えなかった。

 私宅は芝公園内で、「帝都日々新聞が目下休刊してゐるから、君が復刊したらどうだ」と著者は持ちかけられた。軽い気持ちで承諾したが、後になって、野依が今再刊の準備中だと怒って沙汰止みになった。結局再刊されなかったと書いてあるが、実際はその後再刊された。
 占領中に野依に会ったこともあるが、税務署でよそよりも多量の酒を配給されてゐるところだった。
 李起東も出てくる。頭山翁は李のダンスホールを訪れたことがある。
 本書中では「中村季起東」。彼は銀座の一等地に土地を持ってゐた。銀座二丁目に、銀座通りにしてはお粗末な建物で、書画骨董を並べ、ダンスホールも経営してゐた。

 彼は終戦直後、銀座五丁目にある伊東己[巳]代治伯所有の土地、三百余坪が物納のために売り出されたのを、どう手蔓を頼ってか、この土地を五百万円で買取り、これを機会に銀座の前記二丁目初め次々と土地を入手した。
 熱海にも膨大な土地を所有している。なんかの機会で会い、対話中この土地も然るべく処分でしてもよいが、適当な人を紹介してくれというので、日頃親しくしていた福井県人三興製缶社長小沢冨吉氏に話した。

 丁度東京出張所を探してゐたといふので、李に電話して著者と小沢で訪問したが本人は急用で不在。李の夫人が応対に出たが、もう他で話がついてゐるといふ。「何かお聞き違いではありませんか」。
 著者がこの顛末を山田忍三蛇の目ミシン社長に話したところ、「君はその位ですんでよかったんだ。僕は彼には煮え湯を大盥に二、三倍飲まされたような目に会わされた」。
 随分ひどさうだが、一体何をされたのか。蛇の目ミシン社内では何か伝はってゐるのか。

 もう一人登場する三国人が倉本靖三。日本橋三越本店前の鰻屋「むなぎ亭」の社長だ。「戦後どうした経緯か」、元大阪商船の土地三百坪を占有し、最初肉類を売り、その後鰻屋に転向した。著者はこの店先を貸してもいいといはれたので話を進めたが、これも嘘だった。倉本は敗訴して立ち退くところだった。

 本の最初に「序説」てふ前書があって、編纂の協力者は竹内勇蔵だといふ。この人は神智学の大家、野田雄弘の「最高愛弟子であり嗣士でもある」といふ。