2013-01-01から1年間の記事一覧

塚本たし「仮に戦争で敗けたとしても、日本の将来にとってはその方が良いかもしれない」

『お題目と歩く 近世、近現代法華信仰者群像』(浜島典彦著、日蓮宗新新聞社、平成15年)は、江戸から現代に至る日蓮信徒の紹介本。全部で27項目。全部挙げると双葉山、中条静夫、山本昌広、美空ひばり、中村八大、岡晴夫、三遊亭円右、小林一郎、加治時次郎、…

お役人の猿芝居―高野隆文『祖先祭祀概論』

高野隆文『祖先祭祀概論』は昭和8年4月15日謄写、同20日発行。宣揚社が発行した100頁足らずの講演録。 題名からの予想を裏切り、祖先祭祀が如何に神社から遠いものかを講述したもの。そのために、十年二十年と論じても気違ひ扱ひ、異端者扱ひされて…

やまと新聞社長秘書の荒木孝次郎

『●(さんずい+貝)江』は平壌第一中学校同窓会の発行。第16号は昭和50年12月発行。p31から、大内軍一「恩師荒木孝次郎先生と私」が載ってゐる。 荒木は長野県上田市の生まれで、上田中学を卒業後、仙台二高を病気退学、國學院に入学。昼は国学、夜は…

朝食廃止聯盟(同志会)を後援する下位春吉

朝食廃止同志会の編になる『朝食廃止と新健康生活法』(昭和17年5月発行)は、西式健康法の西勝造が提唱した朝食廃止論をまとめたもの。 朝食廃止は奇矯な説ではない。後醍醐天皇の『日中行事』によれば「朝の御膳は午の刻なり」とある。今の昼食のことで、…

岩井大慧東洋文庫長「神風はいつも必ずしも都合よく、吹いて呉れるとは限りますまい」

『歴史公論』の2巻4号、昭和8年4月号は満蒙特輯号。 p106〜108と短いけれども、権藤成卿が「南淵書がどうして私の家に伝はつたか」を談じてゐる。 たゞ幾重にも了解して頂き度いのは歴代の伝写本が両度の洪水の為に水に浸り、扁だけあつて旁はない…

湯野川龍郎東京陸軍幼年学校校長「世の中にはそんなに悪人などと云ふ者は居ない」

狂信的天皇制ファシズムの基底部を構成する陸軍幼年学校に於いて、神懸り的好戦ファッショ思想は紅顔可憐な生徒の脳髄に如何にして強制注入せられたのであらうか。 さういふ人は『随感随筆』を読むのもよい。湯野川龍郎東京陸軍幼年学校校長の随筆を集録した…

頭山翁と寝たら布団が重くなった森敦

芥川賞作家の森敦に『星霜移り人は去る―わが青春放浪』がある。角川文庫で昭和54年11月に出た。元は『文壇意外史』の書名で朝日新聞から出て、初出は『週刊朝日』で昭和49年2月15日号から7月26日号まで連載されてゐた。 特に文壇の事情を知らな…

坪内逍遥の書き入れ本

『雄弁』の大正14年3月号を読んでゐたら、書き入れ本の笑話があった。 p109の「学界閻魔帳 門前小僧」の中にある「坪内博士と欄外書入」。 逍遥博士、あの激しくも凄じかりし関東大震火災のあと、我が家が僅かに事無かりしを知るや否や、たゞちに大八…

褚民誼「遠慮なく栄養の補給に来てください」

西川貞一『私のたどった道』(平成元年5月1日刊行)は価格も出版社の記載もなく私家版のやうだけれども、経歴や交友に見逃せないものがある。 著者は山口県選出の衆議院議員。終戦時は大蔵参与官として、政府の中枢にゐた。 最初は関門日日新聞(防長新聞の前…

A・M・ナイル「四人の間の友情は絶対に変わらない」

日本にやってきたインド人としては、頭山邸からの救出劇が都人士の話題となった中村屋のビハリ・ボースばかりが有名だが、その影に隠れてしまったインド人がゐた。『知られざるインド独立闘争[A・M・ナイル回想録]』はもっと読まれてよい。ナイルは銀座のイ…

式場隆三郎「神経衰弱は敵性病である」

『政界往来』の昭和18年11月号読む。p63に式場隆三郎が「神経病を嗤ふ」を書いてゐる。短いものだが、なかなか意表を突くことを書いてゐる。冒頭から、 戦争と精神病、神経病の問題は世人の予想に反してゐる。私は逢ふ人ごとに戦争になつて狂人が激増…

大竹貫一「今後米英を呼ぶに必ずデビル米英と呼称すべき」

『謇々清議』といふ本があったので開いてみると、頭山翁が竹でできた、もっこのやうな駕籠に座ってゐる写真が載ってゐた。同じく別の駕籠に収まるのが大竹貫一、二人の間で立ってゐるのが洋装の川島浪速。 これは昭和17年10月3日、川島の招きで三老が会…

勲章貰った政治ブローカー、茂木久平

『日本及日本人』昭和42年8月発行の盛夏号に載ってゐるのが茂木久平の随筆「ナショナリスト」。肩書きは国際善隣倶楽部評議員。大正15年、東京市会議員選挙当選を祝って高畠素之から送られた手紙に「旧知だけでも祝賀会を催したいと思ふ、此際知識ゴロの後…

志賀直哉が出会った、下位春吉の教へ子

『志賀直哉全集』の中に、一か所だけ下位春吉が出てくる。読んでみたら素敵に面白い。 第20巻、昭和27年6月16日の手紙より。 旅では色々面白い事がある。ナポリの宿で出会つた米国人のガイドは下位春吉に日本語を習つたと却々よく話し、歌だの俳句など暗記自…

ポール・リシャール慰霊祭の参列者たち

椋木瑳磨太著『雲烟の彼方』は平成12年12月発行。出版社等の記載はなし。印刷はぎょうせい。函。 著者は拓殖大学理事長を務めたが、内調直属の財団法人世界政経調査会勤務の経歴もある。 種々の文章を集めたもの。特に解説などはないので、いろいろ付き…

浪越徳治郎の5月25日

『おやゆび一代 浪越徳治郎自伝』(実業之日本社発行)は昭和50年5月25日発行。函に特別頒価1,200円とある。「浪越徳次郎《百五十五年》記念」とあるのは、当時自身が70歳、指圧療法開業満50年、日本指圧学校開設満35年を合計したから。 昭和20年5月25日、皇…

犬養暗殺の霊示を頭山翁に伝へた西村展蔵

天下一家の会事件に利用されたといふ、西村展蔵の天下一家思想。息子の西村一生が書いたのが『西村展蔵の生涯』(北斗書房、昭和53年4月)。巻末に年譜や家系図が附き、家族写真のやうなものも沢山載ってゐる。その中に神職の装束を着装してゐるのがあって中…

鼻息荒い茂木久平

続き。長島又男は明治37年生まれ、昭和2年早稲田大学政治経済学部中退。聯合通信社入社。電通と聯合が合併した同盟通信社で政治部長、論説委員など務める。戦後は『民報』を創刊し主筆。兄の隆二は桂太郎の女婿。 天龍関が角道改革を志した春秋園事件につい…

山本達雄内相「ホホオ」「ヤア」

長島隆二議員の弟の長島又男が書いた『政治記者の手帖から』(昭和28年3月、河出書房)。検閲の様子が出てくる(p134)。 図書課へ行くと、係官が、文字どおり、新刊の書籍に埋まって、赤鉛筆を握っていた。青い顔をし、ときどきプーツと深い呼吸をしたり、…

秩父宮殿下にサソリ百匹を御覧に入れた寺田文次郎

福書房の『往診鞄』(竹村猛児著)巻末広告では武野藤介編になってゐた『ホルモン談義』。昭和30年7月に世に出たのは『ほるもん随筆』(妙義出版株式会社)。寺田文次郎の単著。表紙は狸が露天風呂に入ってゐる図柄で、粋人粋筆ものめいてゐる。 序文は著…

田辺宗英「日本人は富士山の絵がかければいいんだ」

今日も東京ドームは満員御礼大慶至極。昔は後楽園球場といった。創立者の一人で、後楽園スタヂアムの社長を務めたのが田辺宗英。妻の父は新撰組の生き残りといふ結城無二三。異母兄は小林一三。 伝記の『人間 田辺宗英』(昭和44年3月発行、田辺宗英伝刊行…

山田美妙も佐々木照山も住んだ家

西村文則といへば茨城出身で、戦前戦中に書いた、水戸学に関する著書をよく見かける。『八十八翁清談 風韻味覚』は昭和37年10月、明玄書房発行。戦後は漢詩の指導をして、戦前は茨城日報社長などを務めた新聞人だった。その前は報知新聞や台湾日日新報で働い…

頭山立助が三保で見たもの

頭山立助は頭山翁の長男。一周忌の遺著として『聖戦』がある。編者は西郷隆秀、人文協会、昭和17年9月25日発行。略歴は1㌻に収まってゐる。 一、明治二十四年一月二十三日 頭山満長男として福岡市に生る。 一、大正四年 上海、同文書院卒業。 一、大正八…

都内で弦斎カレーパン

汐留のテレビ局前で弦斎カレーパンをいただく。ゲートを入ってすぐで、出店してゐる4店舗のうち一番よく売れてゐる。一個200円。具沢山で福神漬がよいアクセントになってゐる。イベントは6日まで。 しかし穂村弘氏ではないが、弦斎は一般人に「カレーに…

朝日新聞社員が戦端を開いた“銀座沖海戦”

続き。この本、大朝日の記者列伝なのだから朝日から出版したらよいものを、波書房といふ小さな出版社から出してゐる。巻末の書籍広告は「旅の穴場シリーズ」や『世界驚異人間物語』『竜馬暗殺推理』などの読み物。訝しく読み進むと、その理由がわかった。 こ…

藤本尚則東京朝日新聞校閲部長のお小遣ひ

藤本尚則は頭山翁を熱烈に崇拝し、伝記を執筆した。一方で藤本自身の為人はあまり知られてゐない。経歴としては『日本及日本人』の昭和41年1月号に転載された藤本尚則「国師杉浦重剛先生」に添へたものがある。 明治二十一年高知県に生まる。高知師範卒業後…

橋本徹馬「昭和天皇は話も下手、演説も下手であられる」

続き。本当の「負けるが勝ち」が昭和天皇とマッカーサー元帥との会見であった。岩越のいふ神のごとき負け方であった。「なんと弁解しても部下をのこしてフィリッピンの戦場から逃げだしたマック将軍と、まけて一身を文字通りすてて国民全部を救ったわが陛下…

岩越元一郎「日本は八月十五日以降から実はまけ出した」

『日本及日本人』の昭和41年1月号に、岩越元一郎が「『まける』の哲学」を書いてる。肩書きは国学者。 岩越は玉音放送は小田原に疎開してゐて聞けなかったが、その事実を聞いて大変心痛した。しかし75歳の母は敗戦のことを「まけるが勝ちということがある…

仙花紙のヤミ商売で大儲けした山家亨

『佐々木健児』(昭和57年4月、非売品、佐々木健児追想録刊行会)をぱらぱらめくってゐたら、山家亨少尉が出てきた。佐野氏が参考文献で挙げるだけに、里見甫以外にいろんな人が出てくる。里見は集合写真で見ると普通のをぢいさんにしか見えない。 前半は佐…

飯嶋夫人は三島由紀夫担当編集

続き。飯嶋が、拓大では「オス」を三回唱へると退学を迫られるといふのを批判してゐたりするのも気になるが、飯嶋の結婚式のくだりが読ませる。乃木神社で挙げた式は昭和28年7月。相手は文藝春秋社で三島由紀夫の担当だった。初対面の新妻に、三上は「飯嶋…