田中舎身の東亜女学校は生徒30人

『日本及日本人』の明治43年3月1日号を見てゐたら、田中舎身居士の紹介があった。「八百八街一町二人(四)」(黙洲)は各町の名物男を取り上げる連載で、下谷稲荷町の田中舎身と漢方医の中川昌義が載ってゐる。
 田中舎身居士、頭山翁の同志の仏教者らしいが、あまりまともに取り上げた人が居ない。これによれば田中は岐阜県出身。在俗だが親戚から二人の僧侶が出てゐる。雄弁家で、大内青巒をも凌ぐほど。馬関の近松といふ男が演説中乱入したがこれを説諭して更生させた。
 しかし何より記者子が評価するのは、稲荷町に東亜女学校を設立したこと。 

東亜女学校!!是れ或は女子教育者だも尚ほ未だ知らざる名ならんか、況んや世人は全くその存在を認めざるべし、然れども世人にその存在を認められずして尚ほ苦心経営する処に舎身の面目僅に存するを見る。

 ところが生徒が集まらず、授業料を半額にしたりしたがあまり効果なかった。知名度もないやうで、開校7年の時点で、生徒は30人。

 牧口常三郎がここで地理を教へてゐたさうなが、これでは生活は楽ではなかったであらう。 

中川昌義と田中舎身は、共に同じく其の面白き風采に於て天下の奇なるが如く。二人の亦共にするに足る

 とあるやうに、異常な風体とか奇矯な振舞ひと記されてゐるが、具体的なことが知りたいものだ。