ハイヒールで通学した野本義松












『ニコニコ生活』は昭和27年4月、人事新聞社の編。題名にニコニコとあるから不動貯金銀行の関係かと思ったら、直接の関係はないやう。長岡出身で、選挙に立候補した野本義松の講演録。時々ニコニコといふ言葉が入るだけで、特にニコニコ論を展開してゐるわけではない。初めのほうに簡単な回顧録があって、なかなか面白い。重要人物のやうに思ふが、この本以外に殆ど情報が無い。出版元の人事新聞社といふのもよくわからず、奥付けには野本の名前無く、校閲者松本飄骨とある。

 野本は19歳頃まで貧乏で困窮してゐた。

靴は女子用ハイヒールを履いたので嘲笑を買い堪えかねて軍隊靴を拾つて履いた。右足に左のものを履く。背後から見ると不具者の様に見える。色の異つた寸法の合わぬ服にチンバなドタ靴は、蓋し珍無類で全校の話題の種であった。勿論修学旅行には行けぬ。本も学用品も買えない。学費滞納は常時であつた。

 16歳で寺に預けられ、そこで『古文真宝』『孫子』、シェイクスピアを読んだ。満鉄の社員養成所を経て満鉄に入社。満鉄図書館でも独学した。相変はらず節約生活で、カレーばかり食べた。弁当だと15銭、ライスカレーだと6銭ださうで、その差額を故郷に送金した。遂に中毒を起こして自分からはカレーを食べなくなった。
 長岡出身だからであらう、「昔我が家と旧縁浅からぬ大橋新太郎」に国策会社設立を提案したが容れられなかった。染色会社の重役時代、国家革新思想を持つやうになった。

昭和七年上京した。右翼運動抬頭時代であつたので下中弥三郎、天野辰男[夫]、満川亀太郎、佐々井一晁、中谷武世氏等と共に大いに国策推進に努めた。当時陸軍大学派の諸氏就中武藤章(当時中佐)影佐禎昭少佐、沼田多稼蔵中佐、池田純久少佐、岩畔大尉等と交友する機会を得た。大いに私は船場仕込の経済知識をこれに欠く彼等軍人諸氏に「アドバイス」してあげた。一方右翼運動の推進に努めて来たが右翼運動者の全部とは言わぬがその大半が稼業であつて信義を欠き、苦杯を嘗めさせられた。

 昭和10年頃、下中と国策産業協会を作り、「日本的統制経済政策の具体案を世に発表し日本の大陸政策遂行に役立たせた。電力統制、銀行保険問題、肥料、砂糖問題或いは経済警察の創設等は何れも私の立案によるものであつた」。同協会からは下中の『すめらみこと信仰』が出てゐる。

 右翼と軍人、何れにもかなりの繋がりがあったことが知られる。事変費の捻出計画、有末精三らを交えた重慶和平工作、ヨーロッパ各国の軍事力測定も任された。調べると戦争遂行は無理だとわかったが聞き入れられず、昭和17年で一切軍との関はりを絶った。かう見てくると、カラスヤサトシ似の表紙とは大違いの内容だ。野本の理想がニコニコ生活だったのであらう。
 戦後この本を出す前後、選挙に立候補。「政界のダークホース」と書かれてゐるが、当選はしなかったやうだ。

 『下中弥三郎事典』では、一箇所、「渤海石油股份限公司」の項で野本義松の名前が確認できる。イランから北支へ石油を運ぶ日華合弁会社だった。

 

 ・今度のNHKのドラマ「ごちそうさん」、登場人物の一人「室井幸斎」が村井弦斎をモデルにしてゐる。食の研究者だが、風体は似てゐない。