岡本普意識「天照大神も人間である」

 『先駆者普意識 岡本利吉の生涯』(角石寿一著、昭和52年7月、民生館)は岡本普意識こと岡本利吉の伝記。同じ人だけれどもデータが統合されてゐない図書館もある。
 昭和の初めまではアナーキストと近く、権藤成卿新居格下中弥三郎、平沢計七らと行動してゐた。賀川豊彦と新居と岡本は徳島中学の同窓だった。
 深川で大衆食堂を開いて、五銭満腹食堂といった。古米を一升十銭で払下げられたので店舗も増えたが、米価が値上がりしてストライキを起こされた。
 昭和12年頃から神道への理解を深め、南会津の田出宇賀神社や台湾神社に勤め、国大で田中義能から学んだ室井常磐は「貴方の教学は日本の古神道の精神と一致する」と推奨した。
 自己の思想を宣伝・普及する、伊勢の神都教学館は文部省教学局の直属になった。軍人の援助にもあずかった。 

 軍部の後援に信頼し、財界を奔走し回って別に五百畳の大道場を新築した。落成のころに戦況が険悪になり、それにつれて神がかり思想が軍の上層部を動ごかし、伊勢では神宮皇学館長の山田孝雄氏が声望を高くした。私は周囲より圧迫され神都教学館は山田博士の指導に従えとまで要求された。なぜなら天照大神も人間であるとして、神宮に参るは高天原における模範の事どもを仰慕するのだと説いた私は、神がかり思想者より非難されて改論を求められたからである。

 神道教学を普及しようと大陸にも渡り、初代館長は筑紫熊七元満州国参議。講師には安岡正篤桜沢如一もゐた。財団の理事長は大蔵公望、道場長は南京一番乗りの脇坂次郎だった。しかしこのやうな傾斜は「過去に岡本に教育された門下生にとっては百八十度の転換であり、理解し難いものであった」とある。禊ぎや朝夕拝の行事も行はれた。
 熱心な敬神ぶりも、「人間であるところの天照大神」に捧げられたものであったのであらうか。また岡本の周囲の軍人や神職も、そのやうな岡本の神観念を知って謂集したものであらうか。岡本自身は神がかりではなかったといふ理由付けのために天照大神人間論を唱へたものか。本当のところはわからない。
 山田孝雄の圧迫といふのも詳細が気になるところではある。
 桜沢如一が出てきたやうに、岡本自身も食養法を実践してゐた。

国電で一しょになると、岡本さんはやおらポケットからハトロン紙の封筒を出し、中に入っている玄米と胡麻と食塩の混じったものを手のひらに受け、それをぼりぼり喰べながら話をしたものです。それが岡本さんの夕食です。昼も事務所で同じものを喰べていたようです。

 ともある。飽きたりしなかったのか。 
 昭和31年には学士会館で世界語の「ボアーボム」を発表。エスペラントラテン語に偏してゐたので、アジア人にも遣へるやうにしたもので、下中や大蔵、藤山愛一郎、大橋八郎、片山哲東畑精一、大西雅雄、石黒修らが参集した。