横川省三記念公園設立発起人の面々

 村居銕次郎(銕城)が設立に参画した新聞は民声新報といった。年譜では社長としての俸給五十円とある。自由党の星亨のための機関紙だったが、星が暗殺されてしまひ困難が多く、その後毎日電報、民声新聞、萬歳新聞と紙名が変遷した。編集長ははじめ国木田独歩、その後横川省三が務めた。記者は三嶋霜川らがゐた。
 横川は旧姓を三田村といひ、加波山事件ののち従軍記者、ハワイ移民事業に携わった。のち、日露戦争では鉄道爆破の密命を帯びたが捕虜となり、沖禎介と共に露兵に銃殺されたことで国民の涙を誘った。
 
昭和10年にその旧居を公園として保存することとなり、現在でも都内に残ってゐる。港区の公式ホームページがあるが、ちょっと無味乾燥気味だ。
 第一回の発起人会の参加者は坂西利八郎、井上敬次郎、頭山満、星野錫、川島芳子、痴遊伊藤仁太郎、村居銕城、黒川茂隆、山田俊兵、篠原嶺葉、緒方竹虎の諸氏。川島は日本軍に利用されたといはれるけれども、横川烈士に憧れた面もあったらうと思ふ。写真ではおかっぱ風に見える。
  他に発起人相談役といふのがあり、こちらは頭山翁、川島浪速、柳田国男、葛生能久、五百木良三、利光鶴丸らの名がある。更に発起人世話役には逸見勇彦、賛助員に本庄繁らがゐる。昭和13年12月21日に公園の竣工式が行はれ、二百名が参加。孫の横川園子、縁戚の三田村静子、岡積絶子も呼ばれた。祝辞を頭山翁、菱刈隆、小久保喜七が読んでゐる。
 大正4年には台湾共進会からの招待で、他の新聞社と共に渡台。「体重が二十五貫五百匁を示し、常夏にの地にかなりの苦難を忍んだ」。朝日からは安藤正純、実業之世界からは野依秀市が来てゐた。写真は少し遠くから撮られてゐるが、左端に座って居る短躯の人物が、のよりんであらう。