天野辰夫のお説教と千早特高課長の昼食

 天野辰夫が愛国者民族派の弁護士だったといふのは何となく知られてゐるけれども、その為人の一端がわかる文章があった。
 『民族と政治』の昭和49年4月号に、毛呂清輝が「天野辰夫氏を偲ぶ」を寄せてゐる。初印象では天野が厳父、前田虎雄が慈母、本間憲一郎が伯父貴だった。天野邸ではトイレのスリッパの向きを揃へるやうにと注意された。非常に戦闘的で、「万悪の折伏」「皇道善」といふ言葉をよく用いた。占領憲法下では弁護士をよした。戦後は「聖戦には降伏はない」「天皇が敵に降伏されることはない」と言ってゐた。
 田中正明は「天野辰夫先生の思い出」を寄せてゐる。
 四谷愛住町の愛国勤労党本部はもと山梨半造元陸相の屋敷とかで、天野は週に一度はやってきた。その視察ぶりが恐ろしい。 

玄関に入られると、声もかけないで、つかつかと足速やに奥書院に入り、便所に入り、私たちの居間にちん入し……、といった風に、家の中を隈なく点検して廻る。その間一言も発しない。点検が終ると、私たち四人をならべて、お説教がはじまるのである。それが五分や十分ではない。時には一時間、いや二時間、三時間にもおよぶ。足がしびれてどうにもならないが、先生が端然として正座している以上、崩すわけにもゆかない。先生は剣道何段とかの腕前、極寒での磨きあげた板敷に何時間でも坐り続ける修養ができておられる。当方は田舎の中学生あがり、坐る修練などできていない。痛さを越して、頭の芯がかすみ、ついには目先がぐらぐらくるめく。
 便所の草履が入り口に向いて揃っていない。手拭が汚れている。障子のさんにほこりがある。玄関の靴や下駄が乱れている、襖の締め方がちがっている。――お説教はここからはじまるのである。

 ここでもトイレのスリッパの話が出てくる。さういふことができなければ昭和維新もできないといふ教へだった。お子さんにはきっと「正」の字がついてゐたといふ。

 斎藤実首相邸に爆弾が投げられたとき、天野が参考人として呼び出された。千早といふ特高課長が相手をした。天野が便所に立って戻ってくると、千早が昼食を摂ってゐる。天野は「客人をさしおいて、招いた者が先に食事をとるとき(ママ)は何事か非礼もはなはだしい」と大喝した。
 かういふ言動で、神兵隊の公判闘争であの結果を勝ち取ったのであらうと偲ばれる。
 
 他の資料で鎌倉宮のことがあったが、ここには書かれてゐなかった。