藤沼庄平警視総監を不敬罪で告訴した角田清彦

 この前出た平野小剣の伝記には、しっかりと国家主義時代のことも描写されてゐた。其の中にも名前のあった角田清彦。何をした人なのか摑み所がないが、熊沢天皇関連の不敬事件でも重要な立ち回りをしてゐた。
 吉田長蔵「十六菊花紋章をめぐる不敬事件の真相」は『真相実話』の昭和25年1月号掲載。p114からp125まで詳しく書いてある。
 吉田の母方は菊池武光につながる菊池氏で、平素から南朝に関心を持ってゐた。その吉田が昭和8、9年頃、民政党本部に出入りしてゐたのをよく見かけたのが熊澤信太郎。ペンネームを東海と号し、三流紙誌の文筆家だった。
 その服装が十六菊花の紋服で、美髯と共に堂々とした風采だった。聞くと後醍醐天皇の末裔だといふので、信太郎を通じて、熊澤宗家の寛道から証拠の品を見せてもらふやうになった。寛道が後に自称、熊澤天皇として知られるやうになった。
 吉田の交友から何人もの間に話が広かった。そのうちの一人が「大事件の前にはその人ありで知られた角田清彦」。
 角田は吉田や熊澤以上に熱心になり、国体擁護連盟で工作したやうに書かれてゐる。
 それから元老、枢密院議長、斎藤実以下大臣に建白書を出すと言ふ。仲間内ではさういふことをされると困ると話したが、構はず提出。
 一部が写真に載ってゐて、角田の肩書きは「平民無職」、明治23年1月8日生まれと読める。
 吉田長蔵の角田清彦に対する評言が興味深い。

 自ら重労働の体験をし乍ら長髪の異風体で彼等を啓蒙指導の任に当つた。従つて左翼理論はとうの昔卒業。其まゝ続けて居れば左派の巨頭、今頃は一度高位閣僚の椅子にありつけたかも知れない。然し氏の革新意識は左右を超越した。大本教事件、北一輝氏事件等々凡ゆる問題の覆面の策士として活躍した。頭が良くて筆が立ち、腹が出来てゐるので、左右、何れにあつても重きを為してゐた。

 建白書で事が大きくなってしまひ、菊花紋が取締規則に抵触するといふので熊澤信太郎らが取調べられた。読売新聞政治部の鈴木公平記者が立ち会った。
 菊花紋の中止要請に、吉田は反対したが信太郎本人が受け入れて拇印を押した。
 これを知り、責任を感じた角田が「私にも決意があります」と言って辞去した。
 
 昭和9年4月、角田は藤沼庄平警視総監、林信夫保安部長を不敬罪、涜職罪で告訴する手紙を東京地裁岩村通世宛てに送った。
 その後のゴタゴタもあるが省略。角田は支那に追払はれたといふ。この記事の発表当時はユダヤ問題を研究してゐる、とある。