自力で失明の危機を克服した大川周明

 許斐氏利の伝記には、長勇の七回忌に大川周明がやってきたやうに書いてあるが、それは不可能だった。大川は失明の危機に瀕してゐたから。緑内障が悪化して、不治の病だったので、病院通ひもやめて、自宅で病魔と闘った。十三回忌には出席した。
 『不二』の昭和33年新年号、大川が亡くなったのちに、遺稿として「長中将十三回忌法要記」が載ってゐる。

私は死の時は即ち活の時、最も究[窮」する時は最も通じる時と言ふ事を堅く信じて居るから、其れ程病勢が重く成つても一向絶望せず、視力喪失の一刹那を、即時即刻、視力恢復の一刹那に急転直下させてやるぞと肚を決め

といふ気合だった。三月三十日には全く失明したが、徐々に回復させて物の形が見えるまでにした。
 5月の十三回忌には狩野父子が許斐氏の車で迎へに来て、出発。東京温泉専務の戸村盛雄から羽田で見送りを受けた。飛行機では徳川義親と同席した。飛行機は13年ぶりで、徳川とも三時間話し通し。「私は終戦以後これ程楽しい旅をしたことは無い」。
 宿では五校の同窓、釜瀬富太と旧交を温めた。
 法要は長の銅像と、沖縄の戦没者を供養する地蔵の開眼も兼ねてゐた。この地蔵尊もどこにあるのであらうか。
 夜は許斐が来賓諸氏を福岡の料亭、老松に招いて宴会をした。福岡高裁の藤井亮判事は、大川が法要で長の霊に呼びかけた言葉を激賞し、「リンカーンのゲチスバーグの演説を想起したからそれを聞かせよう」と英語で復誦した。
 墓碑の長君一代記も全文ある。長と許斐を語るに西郷と月性を引き寄せて、「私は未だ曽て是の如き心中沙汰ありしを知らない」。
 短いが徳川義親の「悲悼」もある。 

 然し私は失望してはゐない。同志はまだ健在である。志はつがれてゆく。結果は私も亦見ることは出来ないだらうが。大川君の蒔いた一粒の種子はいよいよ育つてゆく。大川君はきつと観てゐてくれるだらう。でもやはり私は悲しい。