山田美妙も佐々木照山も住んだ家

 西村文則といへば茨城出身で、戦前戦中に書いた、水戸学に関する著書をよく見かける。『八十八翁清談 風韻味覚』は昭和37年10月、明玄書房発行。戦後は漢詩の指導をして、戦前は茨城日報社長などを務めた新聞人だった。その前は報知新聞や台湾日日新報で働いてゐた。
 台湾時代に蒙古王こと照山佐々木安五郎のことを知った。当時の台湾に渡った浪人は皆、台湾日日新報の独身寮に引き取られ、面倒を見てもらってゐた。古いところで池田応助もその仲間だった。その住居にあったのが佐々木の発行してゐた雑誌『高山国』(たかさご、と訓む)で、本人はもう台湾を離れてゐた。佐々木は初めから危険人物扱ひされたが、負けずに後藤新平児玉源太郎総督批判をして、自分で漫画も描いてゐた。
 初対面は田端に用意された、新築の蒙古の王子の住居。獣の皮を敷いて、台湾か蒙古かの酒を酌み交わした。西村は綾部名物の湯豆腐を佐々木から教はったりして長く交際した。
 西村が初めて借りた借家が、王子稲荷の裏坂を上った二階建て。この家が曰く付きの家で、代々著名人が借りてゐたことが次々に判明する。明治には作家の山田美妙斎が住んでゐたが、貧乏で家賃を滞納。管理人が山田の委任状を持って出版社に原稿料を請求して廻った。
 のちに司法大臣になった小原直が住んだこともあって、奥の密室で秘密書類を持ち込んでゐたらしいといふ。 
 旧知の佐々木がやって来た時は、「君こりゃ、吾輩が川島の妹と結婚した家だよ。それ故粛親王の令嬢であり、川崎[川島か]の養女になった例の川島芳子も、此家に久しく居たよ」と蛮声を張り上げた。
 佐々木照山の妻の兄の養女が川島芳子だった。妻は書生と駆け落ちしたさうで、気の毒な晩年だった。