田辺宗英「日本人は富士山の絵がかければいいんだ」

 今日も東京ドームは満員御礼大慶至極。昔は後楽園球場といった。創立者の一人で、後楽園スタヂアムの社長を務めたのが田辺宗英。妻の父は新撰組の生き残りといふ結城無二三。異母兄は小林一三
 伝記の『人間 田辺宗英』(昭和44年3月発行、田辺宗英伝刊行委員会編纂、株式会社後楽園スタヂアム発行、ダイヤモンド社制作、非売品)を函から出して頁を繰ると、ボクシングの白井義男ジョー・ディマジオらスポーツ選手と写真に収まる、痩せて細面の老人がゐる。キャプションの一つには「侠客を思わせる風貌」とあるほどの眼光。戦前の写真は報国新報社長時代に演説してゐるもので、直前の演者は松永材。垂れ幕には「(日)英国交即時断絶」とあって、驚嘆符が三つ付いてゐる。
 序文は正力松太郎。「生涯に最も心の許すことのできた最初にして、最後の偉大なる友」「男のなかの男」「真の“侠客”」。永田雅一大映社長は「いわば右翼のボス的存在の異色の人」といふ。
 実業家の中には、右翼と交流があるとか右翼的思想の持ち主といふ人もゐるだろうが、田辺は右翼がそのまま実業家として成功した稀有な例。 

 戦後、頭山満氏の息子の秀三という人が右翼団体を結成しようとしたときにも、
「いくら君が国威を発揚するようなことをやろうと思っても、金がなくてはできない。自活できなければ人に頼ることになり、真に思想に生きることなどできはしない」

 と忠告した。
 帝国拳闘協会拳道社(帝拳)を設立し、嘉納治五郎の甥の嘉納健治率いる大日本拳闘会との確執では、愛国社の岩田愛之助が間に入った。頭山翁の依頼で、末永節を援助してゐた。
 尊皇愛国は日本人として当然。勤皇報国を唱へて創刊したのが報国新報。ボクシングコミッション事務局長の菊池弘泰らが編集した。東条英機と軍部を弾劾して、何度も発禁にされた。
 敗戦後の文章にもその志操が表れてゐる。 

日本建国の理想は、実にかくの如き高貴の理想である。覇業をもって領土を拡張したり、私心をもって他国に侵入したり、あるいは野望をもって異民族を征服するが如きことは、断じて建国の理想がこれを許さない。(略)たとえ全世界を領有したところが、天に仁政なく地に和平共楽が無く、刃と暴力の占有であるならば、富国強兵は実に呪うべきものである。

 一方で学生時代は心緒の振幅が激しく、本人は「双頭の蛇」と言った。教科書を売って本棚を国定忠治清水次郎長の侠客本で一杯にしたかと思ふと、磔になったパウロに敬服して受洗。クリスチャンネームにした。
 息子が絵を描いてくれといふと、決まって富士山の絵を描いた。「八の字型の富士山の中腹に雲がかかり、三保の松原に松がならんでいる。/いつも、同じ富士山の絵ばかりなので、ある時、/「何か他の絵をかいて下さい」/とねだったら、国粋者田辺宗英は少しもあわてずこう答えた。/「日本人は富士山の絵がかければいいんだ」