やまと新聞社長秘書の荒木孝次郎

 『●(さんずい+貝)江』は平壌第一中学校同窓会の発行。第16号は昭和50年12月発行。p31から、大内軍一「恩師荒木孝次郎先生と私」が載ってゐる。
 荒木は長野県上田市の生まれで、上田中学を卒業後、仙台二高を病気退学、國學院に入学。昼は国学、夜は法律を学んだ。戸水寛人と激論を交わし、激越といふので停学一ヶ月になった。

国学院在学中、南北正閏問題で二ヵ月無届欠席し、東京、水戸、大和など遊説して歩き、徳川家達、福本日南、河野広中、佐々木蒙古、田中捨[舎]身、頭山満などの尻馬に乗って騒ぎ廻った為学生の領分を逸脱した行為として退学とのことであったが、恩師杉浦重剛のお蔭で助けられた。その為時の文相小松原英太郎の退陣という結末となった。それから京都大学専攻科では特に佐々木政一博士外知名の学者の薫陶を受けられた。佐々木政一博士は私の義父が私淑していたので私も佐々木先生の話はよく聞かされた。 
 当時先生と机を並べていた中には折口信夫(文化勲章受領者)を初め十指に余る知名の学者が輩出している。卒業後新聞記者になって、やまと新聞に入り、松下軍治社長の秘書となった。代議士に出馬したこともあったが当時の政界の腐敗は今日にまさるものがあった。純真な先生にとっては堪えられぬものがあったことゝ思う。其後朝日に転じた。

 やまと新聞に入社するには、かういった経歴が適当であったことが知られる。南北朝正閏問題の遊説では徳川家達が筆頭になってゐる。

 その後、後藤新平の門下になったのち、叔父の山極勝三郎の助言で教育者となり、北海道の水産高校、高知一中、平壌一中で教へた。六三制は亡国教育だといって、戦後は教壇に立たなかった。
 9月には米寿の祝賀会が催され、恩師を囲んで写真を撮ってゐる。教へ子の鄭昌俊が先生のあだ名は百一で、百に一つしか本当のことを云はなかったから付けられたと語ってゐる。