頭山立助が三保で見たもの

 頭山立助は頭山翁の長男。一周忌の遺著として『聖戦』がある。編者は西郷隆秀、人文協会、昭和17年9月25日発行。略歴は1㌻に収まってゐる。
 

 一、明治二十四年一月二十三日 頭山満長男として福岡市に生る。
 一、大正四年 上海、同文書院卒業。
 一、大正八年 濱地八郎氏長女鶴子嬢と結婚。
 一、大正十三年以降 三保に静養。
 一、昭和二年以降 鵠沼に移る。
 一、昭和四年六月 孫文十年祭に参列のため渡支。
 一、昭和四年十月以降 辻堂に住居。
 一、昭和十六年七月三日 辻堂にて逝去。享年五十一.
 一、同    七月八日 芝、増上寺にて葬儀。
 一、同    八月六日 福岡市簀子町、円応寺に埋葬。
              法号 俊光院賢立秀堂居士。    


 病弱で「寝るために生まれて来た」やうな生活だった。序文で大森一声は

この一年間の画期的な世界の変転に、私共は先生を懐ふの情、弥々切なるものを覚へる。恰かも富士山が、遠くなれば遠くなるほど、そしてこちらが高くなれば高くなるほど、より大きく、より高く見えるのと同じででもあらうか。

 といふ。立助は折々の歌句を手帳につけたものが20数冊に及び、3000作品以上になった。本書にはそのうち千数百首が収録されてゐる。
 巻頭写真は2枚で、1枚は仏画のやうな物の前で端座する立助の温容。2枚めは釈迦か人間か、座禅してゐる略画に詩文を添へてゐる。
 形にこだはらず、歌も句も、長いのも短いのも区々になってゐる。内容は神仏老荘が渾然となったもので、ちょっと名状しがたい畏ろしさがある。ぜんぶかな文字のものなど、御筆先を思はせるものもある。

 宗教書の原典や古典のやうに、引用でなく原文にあたるのが一番よい。
  
 「はつ夏の三保にしたしむ心ちなりあぢうるわしき豆きうりにて」は、小さな胡瓜を口にして心安らかな境地を詠んだものであらうか。
 「三保にてよむ 鳥なきしかなたを見やれば春雨の静かにふりて松はむらだつ」「むらだつ」は群れ立つ。群生してゐる。
 かういふ歌と共に、不思議な歌句を遺してゐる。立助は三保や辻堂やで何を見てゐたのであらうか。 

 「断行の者は其事至るまで毛ほどもきざし見せぬものなり」
 「てんもちもはれつなしたるそのゆめのもなかもまへもあともかはらじ」
 「山のかにちをすわせずになにごとのとりゑかあらむうつけなるみは」
 「父上話のことを読む 戦勝をゑむよりむしろ仁敗をなすが日の本大和魂」 
 「夢の中のうそも誠も夢なれば夢てうことは変らざりけり」
 「ほやほやの父の御腹をさわるのが、いをふようなく楽しかりけり」

  浪越徳次郎も褒めてゐた、ほやほやのおなか。