浪越徳治郎の5月25日

 『おやゆび一代 浪越徳治郎自伝』(実業之日本社発行)は昭和50年5月25日発行。函に特別頒価1,200円とある。「浪越徳次郎《百五十五年》記念」とあるのは、当時自身が70歳、指圧療法開業満50年、日本指圧学校開設満35年を合計したから。
 昭和20年5月25日、皇居と共に指圧学院の学舎も焼かれた。森脇克己元陸軍大佐(宮内省勤務)らの助けで一年後に再建。5月25日の落成式で石橋湛山蔵相が祝辞を読んだ。
 
 …と読んでいくと、浪越が祝祭日などの記念日を気にかけてゐる描写がよく出てくる。
 生まれたのは明治38年天長節。母が君が代を歌ってゐる時に産気づいた。
 指圧治療所の好立地を伝通院前に見つけたのが昭和13年陸軍記念日。 

 日本指圧学院の創立は皇紀2600年、昭和15年紀元節。早朝明治神宮に参拝し決意を奉告した。創立時の講演会で、非常に指圧を愛好した高須芳次郎は「第二、第三の浪越出でよ!」と題して語った。他の講師は石丸梧平、諸岡存。

 頭山翁の邸には、知人の品川義介の紹介状を持っていった。 

 左手の薬指が根もとからないのに驚いた。
 「先生、これは何かお怪我でも―」
 「うむ、これはな、若いころ貧乏して金を借りたところ、金貸しの野郎が居坐って、どうしても持っていくというから、金はないからこれを持っていけ―といって、目の前でこの指を小刀でぶった切ってやったら、金貸しの奴、腰を抜かしおったよ」
 と平然と言う。不言実行、とにかく偉い人だった。

 この直話では、断指は頭山杉山親交の証しといふ説と異なる。
 以前取り上げた『自分でできる3分間指圧』(浪越徳治郎実業之日本社、昭和42年)よりもこちらの方が描写が詳しいけれども、この文章では翁のお腹がやはらかかったといふ記述がない。
 7回ほど治療して終ったのが「忘れもしない皇太子さまご誕生日の十二月二十三日」。現金70円と為書きのある書をもらひ、峰尾夫人のカレーライスも食べた。去り際に更に10円もらったので、これは銀座のバー「タイガー」に行くなどして使った。


 他にも治療に行った人について小見出しが立ってゐる。
 飯野吉三郎を治療したのは昭和8年ごろ。邸宅は荒れてゐたが、70過ぎて女性を4人抱へてゐた。
 早川雪洲は、柔道で痛めた右膝を治療。親しく交際し、一緒に講演もした。撮影中も浪越から教はった自己指圧で乗り切った。
 夫人の青木鶴子からは愛人問題の電話がかかってきたりした。夫人の方が先に逝って、駆けつけた浪越は、雪洲が号泣してゐるのを見て心打たれた。
 「笑おう会」の写真も載ってゐる。易者の高島象山、式場隆三郎菅原通済らも会員だった。
 安藤正純を指圧してゐたのは二二六事件の当日。異変を知らせる電話で中断した。