坪内逍遥の書き入れ本

 『雄弁』の大正14年3月号を読んでゐたら、書き入れ本の笑話があった。
 p109の「学界閻魔帳 門前小僧」の中にある「坪内博士と欄外書入」。

 

逍遥博士、あの激しくも凄じかりし関東大震火災のあと、我が家が僅かに事無かりしを知るや否や、たゞちに大八車をやとひ、汗牛充棟もたゞならぬ蔵書の一切を自邸から早大図書館に運び。そつくり寄附をして了つたのである。ところが、やんちや盛りの早稲田の学生、図書館へ入るのが殊勝ではあるのだが、借出した本を見ると、欄外に一杯鉛筆の書き入れがある。公徳心のない奴はこまつたものだと、がさがさかたい消しゴムで消し出した。驚いたのは坪内宗の人々『君そんなことをしちやこまる。これはねえ坪内先生の書き入れで、先生の読書の感想なのだから、先生の思想の発展を窺ふ唯一無二の貴重な資料だ。大切にし給へ』と叱つた。実際、それらの本は先生の読書録をも含んだもの、早く漱石のそれのやうに記録されておきたいものだ。

 一般人が書き込むと怒られて、有名人が書き込むと珍重されるのはちょっと不思議な気もする。