褚民誼「遠慮なく栄養の補給に来てください」

 西川貞一『私のたどった道』(平成元年5月1日刊行)は価格も出版社の記載もなく私家版のやうだけれども、経歴や交友に見逃せないものがある。
 著者は山口県選出の衆議院議員終戦時は大蔵参与官として、政府の中枢にゐた。
 最初は関門日日新聞(防長新聞の前身)に入社して新聞記者をしてゐた。
 神仏基の宗教に関心があり、キリスト教の洗礼を受けたが、他の宗教を認めないこと、全知全能の神の存在には疑問を持ったままだった。
 県下では下関市で、川面凡児の稜威会のみそぎをしたりしてゐた。
 関門日日新聞でも講習会を主催することになり、別府村(のちの秋芳町)の禊に参加。このときの講師は、豊浦郡黒井村(のちの豊浦町)出身の金谷眞らだった。食事は粥を啜るだけの厳しいもので、そのうち母そっくりの観音菩薩、その背後に何かが控へてゐるものを見るといふ、生涯ただ一度の神秘体験をした。
 筧克彦の『神ながらの道』も精読。先祖を遡ると国民全部も皇室も親戚同士になることから国体の本義を自覚。『日本精神の展開』を出版し、全国の中等学校以上の学校、図書館に寄付することができ、12版を売った。これで名を売って、昭和12年2月10日の衆議院選では山口一区でトップ当選。久原房之助の知遇を得て政友会に入党した。
 終戦前後の記録も詳しい。 

 ご放送が終わって控室に引き揚げると、大蔵省から連絡があって、今朝十一時頃から都内の銀行に預金引き出しに来る者が多くなり取り付け騒ぎになりはせぬかと注意していたところ、正午になって陛下のご放送が始まると誰もが襟を正して謹聴していたが、終わると預金の引き出しを取り止めて去る者が多く金融界はどこも平静になったとのこと。さらに、宮城前の広場に多数の市民が集まって泣き伏している。その人数は刻々増加しているとのこと。「僕たちも行こう。そして陛下にお詫びしよう」と発議したのは、鉄道参与官の羽田武嗣郎君(長野県選出)であったと記憶しています。当時軍需省の参与官であった三木武夫氏も、たしかその一員であったと思いますが、十数名の者が自動車で駆けつけました。

 武嗣郎は羽田孜元首相の父。一行は午後一時前に到着。数千の市民がひれ伏してゐた。
 西川は、久原の家族が占領軍を恐れて身延に避難しようとするのを止めたりしてゐる。

 書中、戦争と食料に関することが出てくる。マッカーサー元帥を接伴した人から聞いた話では、当夜、日本側がシャンパンやビフテキでもてなすと向かふは上機嫌で、「日本は極度の食糧難で困っていると聞いたが、こんなに美味なビフテキ用の牛がまだいるのか」と聞く。その通りで食用の牛はもう払底し、農耕用の牛を代用。「肉が硬くて恐縮です」と答へたら、「占領軍の食料は全部本国から補給するから、今後は気をつかわないように」と心配された。
 また或る日、差出人不明の小包みが届く。中身は汪兆銘夫人陳璧君女史、陳公博らの苦難と処刑の状況を綴ったものだった。西川が特に親交があったのは、汪兆銘政権駐日大使だった褚民誼。 

 東京ではしばしば宴席を設けて招いてくれ「皆さんは物資に不自由しているでしょうが、大使館には食べ物も酒も充分にありますから、遠慮なく栄養の補給に来て下さい」といってくれていました。

 褚は少林寺拳法の達人で、詩吟にも長じてゐた。
 久原房之助のお供で大陸に渡り、臨時政府の王克敏から饗応を受けたこともある。この時は王が「中国は常に戦乱が続いていますので、古い家では十年やそこら不自由をしないように蓄えているので、まだ困るようなことはありません」と話してゐる。 
 軍事力のほかに、食料で懸隔の差があったのも敗因の一つではないかと仄めかしてゐる。

 西川は8月15日の皇居前で、「武力の戦争は終わったが今後思想の戦争で必ず皇国を維持し、国運の回復をはかり聖旨に答え奉る」と誓った。
 選挙では安倍晋太郎の選挙に尽力し、巻頭写真では岸信介元首相と写ってゐるのもある。
 本書の表紙は松原と富士山。