藤本尚則東京朝日新聞校閲部長のお小遣ひ

 藤本尚則は頭山翁を熱烈に崇拝し、伝記を執筆した。一方で藤本自身の為人はあまり知られてゐない。経歴としては『日本及日本人』の昭和41年1月号に転載された藤本尚則「国師杉浦重剛先生」に添へたものがある。

 明治二十一年高知県に生まる。高知師範卒業後明治大学、大正三年日本大学に学ぶ。郷里にて教員ののち立憲国民党機関紙大勢新聞記者を経て大正八年東京朝日新聞社に入り、同十一年以来同新聞編集発行名義人たること二十カ年に及ぶ。現在同新聞客員。著書に「巨人頭山満翁」「頭山翁写真伝」「頭山精神」ほかがある。

 若いときの教師志望、立憲国民党機関紙大勢新聞記者といふのは他であまり描かれてこなかった。経歴の上に、腰掛ける杉浦の傍らに立つ藤本の写真。四角い顔にがっしりした体格。
 もう少し詳しい人柄が載ってゐるものに、新延修三『われらヒラ記者 朝日新聞を築いた人たち』(昭和48年5月、波書房発行、医事薬業新報社発売)がある。著者は明治38年大阪生まれ。昭和3年慶応大卒業、同年東京朝日新聞入社。44の項目を立てて、「ヒラ記者」の列伝をものしてゐる。「寝台車で高らかに詩吟(藤本尚則)」はp129から。 

 雑誌などの発行名義人は、編集長の名を出すのが、普通だが、昔は検閲がやかましくて、おまけに「新聞指導要領」という奴が、内務省あたりから、しょっちゅう出るので、かりそめにも、それらに抵触するような記事が出ると、忽ち、発行名義人に東京地方裁判所から呼び出しがかかり、叱言をいわれたり、時には罰金刑や、禁固刑がいい渡されるという

 藤本は刑罰こそ受けなかったがよく呼び出された。「放免になるのだが、お蔭で藤本君には御苦労費として、一回出頭するする度に金五円也の特別手当が社から出た。/当時の五円は、大金である」。 裁判所では持論を展開。向ふが暇な時は話し相手として呼び出されたりした。小遣ひも貰へるし、かうなると呼び出しを待望するくらゐの気持だったかもしれない。

 紙面の記事、わけても宮廷記事で、御の字が一字足りない、というようないいがかりをつけて、右翼の者や、暴力団の連中がよく社へやってきた。
 この時の応待係が、これまた尚則君である。
 「ワシに金出せちゅうても、無理じゃろう。何しろ我輩は社の借金王だから、会計部長の奴、なかなかおいそれとは金を出さんでのう」
 といった調子で追い帰してしまうのである。

 藤本は校閲部長と紹介されることもあるが、このやうな対策も仕事のうちであった。頭山と親しかったので、右翼も強くでられなかったことであらう。