A・M・ナイル「四人の間の友情は絶対に変わらない」

 日本にやってきたインド人としては、頭山邸からの救出劇が都人士の話題となった中村屋のビハリ・ボースばかりが有名だが、その影に隠れてしまったインド人がゐた。『知られざるインド独立闘争[A・M・ナイル回想録]』はもっと読まれてよい。ナイルは銀座のインド料理屋の店主で、実際丸元淑生が書いた序文「ナイルさんのこと」には、最初から最後までナイルレストランの思ひ出しか書かれてゐない。
 しかし目次を見るだけでも、ケララ州出身の著者が日本、満洲、モンゴル、新疆、インド、シンガポールと世界を渡ってインド独立に奔走したことが知られる。
 ビハリ・ボースが右翼浪人と交わってゐたので、ナイルはさうでもないだらうと思ふとさにあらず。一歩引いた視線でありながらしっかりと彼らを高く評価してゐる。
 大川周明にについて語るなかで、「危険視されてもいた極右の国粋主義者の多くが、実は立派な学者や高潔な人物たちだった」と言ってゐる。プラタップも葛生能久も出てくる。「日本軍の増強に伴って、朝鮮の女性の名誉を傷つける行為もまた拡大」「満州国では、朝鮮で駆り集められた驚くほど大勢の若い女性たちが、日本軍兵士の相手をしなければならなかった」と、慰安婦の惨状にも心を砕き、日本べったりでもない。 
 そんなナイルが何をしてゐたのかといふのが気になる。ソ朝国境に、日本支配下朝鮮人による緩衝地帯を作らうとしたりしてゐる。ここで登場するのが李海天で、韓国(書中では南朝鮮)出身。朝鮮併合に激昂した民族主義者で、朝鮮随一の愛国者だったといふ。日本側もその点を理解した上で李に協力を求めてゐる。
 

 内田良平頭山満、李海天、それにわたしの四人にとっての公分母は、つまりナショナリズムだったのである。だが四人の間には、お互いに絶対、干渉はしないという不文律があった。それぞれ、自分なりに最適と判断した道を歩み、どんな活動をしているのかも、打ち明けたくないのなら言わないでも構わないし、だれもそんなことは聞かない。だが、四人の友情は絶対に変わらない――そういう関係だったのだ。しかし李とわたしはいつも、腹を割って話すことができた。満州国や朝鮮で一緒に旅をしたこともよくあった。かれの隠密行動の巧みさには頭が下がった。

 李の隠密を知るナイルも謀略に邁進したやうで、よく満洲に行っている。包頭ではイスラム教徒のふりをしてゐる。戦時中の日本軍とインドの動きも詳しい。
 
 ビハリ・ボースからの電報には「インド人ボース」とあった。当時日本国籍を有してゐた筈なので驚いて質問すると、「日本の国籍をとったのは、生き延びるためだ。私は考えでも行動でも、あくまでインド人だ」と答へた。ナイルはこの出来事を鮮明に記憶し続けたといふ。