ポール・リシャール慰霊祭の参列者たち

 椋木瑳磨太著『雲烟の彼方』は平成12年12月発行。出版社等の記載はなし。印刷はぎょうせい。函。
 著者は拓殖大学理事長を務めたが、内調直属の財団法人世界政経調査会勤務の経歴もある。
 種々の文章を集めたもの。特に解説などはないので、いろいろ付き合はせないと背景がよくわからないところもある。
 多いのは大川周明の所謂大川塾について。
 そのなかに、ポール・リシャールの慰霊祭について書いてある。(p238〜)

某年某月、東京深川の富岡八幡宮の参集殿で日本側有志による同博士の招魂慰霊祭が執行されたが、そのときの顔ぶれには、日野月氏をはじめ片岡気介、葦津珍彦、幡掛正浩、岩越元一郎、山蔭基央、正岡岩三郎、毛呂清輝、瓜谷侑広ら諸氏のほか、いまは亡き菅原茂次郎、田尻隼人、石井実雄氏らの姿もあったと記憶する。当日、私は霊前で同博士作のかの雄渾にして格調高き詩篇、「日本の児等に」の朗読を担当した。

 参列者は有名無名とりどりだが民族派・浪人も多い。瓜谷はたま出版の人。
 日野月氏は日野月孝治。大川周明全集の編集に当たった。巻頭に写真が載ってゐる。
 博士死去の直前まで来日の折衝に当たってゐたのも、大川塾第一回生の滝井裕だった。
 

 ネット上では稜威会の関はりが上がってゐるが、やっぱり大川周辺の人物も参集したのか…と思ってゐたら、慰霊祭の写真を見つけた。
 八光流機関誌の『護身道』昭和43年1月号に奥山竜峰が『「日本国に告ぐ」に聴け』を書いてゐる。
 これによると、椋木著では某年某月と曖昧だった慰霊祭は、昭和42年8月24日。リシャール博士命日の6月24日から二ヶ月後に行はれた。こちらでは「追悼慰霊祭」。
 写真を見ると「リシャール博士慰霊祭式[場]」とある。
 奥山は正面の宮司の左隣。宮司を挟み右隣には長身の西洋人が立ってゐるが遺族だらうか。
 全部で50人くらゐ並んでゐるが、最上段が葦津か。