鈴木天眼の見た高場乱

 『活世界』は天眼鈴木力が編集してゐた雑誌。硬い政論記事が多い。その明治24年4月号に、鈴木の高場乱評「人参畑の先生」が載ってゐる。
 鈴木の玄洋社社員評に「木綿の糸一筋を以て大山を引張る事さへ。平気に手掛ると人に言はるゝ奇雄頭山満」といふのがちょっと珍しい。
 紹介の分量は多いが、大筋は今までの伝記に載ってゐる。ただ、向陽義塾が盛んに、激しくなった一方、その反動として純粋な亀井学派の「漸強義塾」ができたといふ。
 高場は向陽義塾を去って、漸強義塾で教師をしたといふところは、あまり見ない。 

乱の気質は矯激偏頑の傾無き能はず。人と応接するに。素直に言を発せず。或は物の裏を言ひ。或は逆さことをいふなどの癖あり

 といふのは頭山翁に引き継がれたやうに思へる。
 高場は明治24年3月に没したが、鈴木は前年に高場に面会してゐる。福岡名物は「博多織に十里の松原。及び人参畑の先生」だといはれて、訪問したのだ。 

物の言ひ様応対の仕振り。誠に一の気丈なる丈夫にぞ有りける。先生の容貌俊秀なるに因て察するに。婦人として顔の醜き為めに。枉けて男子の業を学び。虚名を衒ふて自快しとする。

 女性にしては容貌が…なので男になってゐるのだらうと書き付けてゐる。
 話してみると、高場本人は政治に口を挟むよりも、教育や医療に関心があり、医者になるときの実地試験に力を入れるやうに提案してゐたといふ。