須田町食堂の加藤清二郎は和製ムッソリーニ

 『人の噂』は昭和13年4月号(第9巻第4号)になってくると、判型も小さくなってくる。
 この号の犬飼喜七「財界立志伝」は、神田須田町食堂主人の加藤清二郎の訪問録が載ってゐる。須田町食堂は評判の大衆食堂だった。犬飼は貧乏学生時代、「須田町食堂のカレーライスとは大分昵懇の間柄」だったさうで、取材時間も予定の二時間を大幅に超過したといふ。

 この加藤、非常なムッソリーニ崇敬者だったといふ。

加藤氏はなかなかの軍人礼讃者で、またムソリーニ崇敬者でもあるさうだそれかあらぬか、氏の相貌のどこかが何となくムソリーニに似てゐるやうである。いや加藤氏と一時間位も喋つてゐると、それは単なる噂ではなく、氏が心から軍人とそしてムソリーニが好きであることがよく分る。「何事も軍隊式にやる。」それが方針らしいし、またムソリーニの「頑張る者は勝つ」が氏の信念であるやうだ。

 加藤氏を指して「和製ムソリーニ」と云ふ。彼氏自身もせつせとムソリーニを見習つてゐるやうだ。刻下の非常時局には、この型は一層伸びるのかも判らん。

 救世軍のやうに、軍隊式にすると無駄がないのだらう。
店員も軍歴のある人が多く、開店日も大正13年3月10日の陸軍記念日だった。
 加藤は当時41歳。新潟県白根町出身で、若いとき株で10万円儲けたがスってしまった。サガレンで肉体労働して500円貯めたが、株で失敗して、実業をしようと転換。神田の平野商店といふ菓子問屋、洋食店のコック見習ひを経て須田町交差点に須田町食堂を出店した。
 最初は間口ニ間に奥行き三間半、収容人数30人だったが、44支店、使用人1900人、旅館2軒までに発展した。各地の聚楽も経営した。
 質実剛健頑張りズムを発揮したと言ふのが和製ムッソリーニといふことらしい。
 和製○○といふいひ方、映画俳優などを褒めるときにつかふだらうから、もちろん当時はムッソリーニに悪い印象はなかったのだらう。 

 食堂は今は秋葉原のビルにあるさうだから、ファシストがお食事することもできる。