空飛ぶ円盤のような話‐徳田球一の妹と矢野酉雄

 『孤山矢野酉雄』は昭和39年11月20日発行、編集及発行者は矢野酉雄記念出版刊行会の非売品。明治30年福岡県生まれで、昭和38年11月20日に亡くなってゐる。
 矢野酉雄は教育者、編集者、宗教者、参議院議員と幾つもの顔を持ってゐた。教師としては沖縄女子師範と沖縄高女、鹿児島第二師範でそれぞれ教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校では訓導。出版方面では講談社に入社し『武道宝鑑』を編集、教育公論社長。生長の家教育部長、月刊『生命の教育』編集部長。22年参議院議員初当選。
 本書は3部構成で、第一編は本人の文集。『月刊満州』昭和19年のものも収録。「神がかりになるべし」の一節を引く。

 最も古きもの、最も純の醇なるもの、最も日本的なるものは、神がかりだという一片の言葉をもつて、冷笑し嘲笑されたではないか。
 しかして冷笑し嘲笑する連中は、自分自身、マルクス張りの物がかりの魔術に翻弄されていることすら自覚していなかつたのである。この戦局においてさえ物がかりの日本人がうようよしているではないか。
 日本人は日本人らしく、すべからく神がかりになるべしだ。

 神がかりでなぜいけない。物がかり、つまり唯物主義者の方がよくないといふ。
 そして、いはゆる憂国者が「食ふか食はれるかの戦争」だと言ってゐることに憤る。これでは、単なる生物界の生存競争でしかない。「そのコトバ自体が日本のみいくさを侮蔑し、われら一億の兄弟の戦争理念をして、下道に落としむるの悲しむべき事態を招来せしむる」。矢野にとってこの戦は「聖戦」「純忠一元の大義」だった。
 第二編が追悼録、第三編が寄稿集で、こちらを読むと人となりが分かる。
 滝嘉三郎は元講談社社員、生長の家本部員、静岡県立中央図書館司書。講談社内では憂鬱なこともあったが、

矢野先生は驚くほど自由で豪快で、高い壁の中に閉じ込められていたような私共の心に、明るい光を射し入れる窓のような役割をしていられ、ああなるほど、これが九州男児というものか、と目を見はらされるようなことが多かつた。

 英米思想撃滅を論じる激しさと、陽気で豪放な面を両方併せ持ってゐた。
 詩人の伊波南哲、生田花世、竹内てるよが寄稿してゐるのは、夫人との縁が大きい。
矢野夫人は日本共産党徳田球一の妹。作曲家の金井喜久子が、矢野が沖縄の学校に赴任したときの雰囲気を写してゐる。

 「あの人ね、徳球さんの妹ですつてよ」「徳球さんてどんな人なの」「とてもこわいことするんだつてよ」「天皇陛下も警察もなしにして、その上お金持ちも貧乏人もなくして、平等にするんだつて」われわれ一年生の間で始めて、ささやかれた空飛ぶ円盤のような話であった。
「ところがね矢野先生は天皇崇拝で、日本の国を愛し、共産党は大嫌いだつて」「そういう徳球の妹である克子さんとはばかに親しいんではないこと」

 克子夫人自身も詩人で、のちにウクライナで戦病死した次男のことを詩集にしてゐる。

 
 ・夕刊フジ見たら、谷垣幹事長が式内社を自転車で巡ってゐるといふ。論社はどうしてゐるのか。誰か教へてゐるのだらうか。